砲火指揮

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第一、第二戦隊の戦況 (真之の戦闘詳報より)


< 回頭して砲撃を開始する連合艦隊(右)とバルチック艦隊(左) [イメージ写真]
 

 敵の先頭部隊は第一戦隊の圧迫を受けて、稍(やや)その右舷に転舵し、午後二時八分、彼より発砲を開始せしが、我は暫くこれに耐えて射距離六千米突に入るに及び、猛烈に敵の両先頭艦に砲火を集注せり。


< 午後二時八分の両艦隊の位置 (「明治三十七八年海戦史」挿図) >


<被弾し後部マストが折れた三笠>


 敵はこれが為め益々東南に撃圧せらるるものの如く、その左右両列共に漸時東方に変針し、自然に不規則なる単縦陣を形成して我と並航の姿勢を執り、その左翼列の先頭艦たりし「オスラービヤ」の如きは須臾(しばらく)にして撃破せられ、大火災を起して戦列より脱せり。この時に当り、第二戦隊も既に悉く第一戦隊の後方に列し、我全線の掩撃砲火は射距離の短縮と共に益々顕著なる効果を呈し、敵の旗艦「スヲーロフ」、二番艦「アレクサンドル三世」も大火災に罹りて、戦列を離れ陣形愈々乱れ、後続の諸艦また火災に罹(かか)れるもの多く、その騰煙は西風に靡(なび)きて忽ち海上一面を蔽い、濠気と共に全く敵艦を包み、第一戦隊の如きは為めに一時射撃を中止せるの状況なりき。また我軍に於ても各艦多少の損害を蒙り、浅間の如きは後部水線に敵弾を受けて舵機を損じ、且つ浸水甚しく一時止むを得ず列外に落伍せしが、機もなく応急修理して再び戦列に入れり。これ午後二時四十五分前後に於ける彼我主力の戦況にして、勝敗は既にこの間に決せり。


< 午後二時四十分の両艦隊の位置 (「明治三十七八年海戦史」挿図) >


勝敗を決した最初の三十分(真之の回想記より)

 この戦報の通りに、敵の艦隊が、初めて火蓋を切って砲撃したのが午後二時八分で、我が第一戦隊が、暫く之に耐えて、応戦したのが三四分後れて、二時十一分頃であったと記憶して居る。この三四分に飛んで来た敵弾の数は、少くとも三百発以上で、それが皆我が先頭の旗艦「三笠」に集中されたから、「三笠」は未だ一弾をも打出さぬ内に、多少の損害も死傷もあったのだが、幸に距離が遠かったため、大怪我はなかったのである。これより後の戦況は、口筆を弄するよりも、左に掲げたる第一合戦の二対勢図を見るのが、最も早く分かる。即ち一は午後二時十二分、戦艦隊が砲撃を開始して、敵の先頭二艦に集弾したる刹那で、また他の一つは午後二時四十五分、敵の戦列全く乱れて、勝敗の分れた時の対勢である。その間実に三十五分で[実際は三十三分で誤記と思われる]、正味の処は三十分に過ぎない。しかし未だこの時には、敵艦隊一隻も沈没して居らぬのだ(第二図、第三図参照)。


 この対戦に於ける彼我主力の艦数は、双方共に十二隻であって、我は戦艦四隻、装甲巡洋艦八隻、彼は戦艦八隻、装甲巡洋艦一隻と装甲海防艦三より成り、その勢力は、ほぼ対当であったが、ただやや我軍の戦術と砲術が優れて居ったために、この決勝をかち得たので、皇国の興廃は、実にこの三十分間の決戦に由って定まったのである。