死後

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死を客観的に感じる

 亡くなる前年に書かれた『死後』という随筆の中で、子規は「死」というものに対する二通りの感じ方について語っている。

 「余の如き長病人は死という事を考えだす様な機会にも度々出会い、またそういう事を考えるに適当した暇があるので、それ等の為に死という事は丁寧反覆に研究せられておる。しかし死を感ずるには二様の感じ様がある。一は主観的の感じで、一は客観的の感じである。そんな言葉ではよくわかるまいが、死を主観的に感ずるというのは、自分が今死ぬる様に感じるので、甚だ恐ろしい感じである。動気が躍って精神が不安を感じて非常に煩悶するのである。これは病人が病気に故障がある毎によく起こすやつでこれ位不愉快なものは無い。客観的に自己の死を感じるというのは変な言葉であるが、自己の形体が死んでも自己の考は生き残っていて、その考が自己の形体の死を客観的に見ておるのである。主観的の方は普通の人によく起こる感情であるが、客観的の方はその趣すら解せぬ人が多いのであろう。主観的の方は恐ろしい、苦しい、悲しい、瞬時も堪えられぬような厭な感じであるが、客観的の方はそれよりもよほど冷淡に自己の死という事を見るので、多少は悲しい果敢(はか)ない感もあるが、ある時は寧ろ滑稽に落ちて独りほほえむような事もある。

 日記のようなものである『仰臥漫録』では、上記で言う「主観的」な書き方がされている事が多い。病状が少し落ち着いた時に書かれた随筆は、次の文章のように「客観的」な、そして時には「滑稽」な書き方がされている。

埋葬方法について

 子規は、 「先ず第一に自分が死ぬるというとそれを棺に入れねばなるまい、死人を棺に入れる所は子供の内から度々見ておるがいかにも窮屈そうなもので厭な感じである。窮屈なというのは狭い棺に死体を入れる許りでなく、その死体がゆるがぬように何かでつめるのが厭やなのである。」 などと一通り棺の窮屈さを論じた後で、今度は 「棺の窮屈なのは仕方が無いとした所で、その棺をどういう工合に葬むられたのが一番自分の意に適っているか」 ということを土葬、火葬などそれぞれの長短を分析し始める。


○土葬



○火葬場での火葬



○隠坊的火葬 (高く組んだ薪の上に棺をのせ、屋外で時間をかけて焼くという方法)



○水葬 



○姥捨山へ捨てる
 



○ミイラになってみる (エジプト風) 



○ミイラになってみる (即身仏:僧が瞑想状態で土中に篭もり、ミイラ化すること) 



○結局・・・、
 死後の自己に於ける客観的の観察はそれからそれといろいろ考えて見ても、どうもこれなら具合のいいという死にようもないので、なろう事なら星にでもなって見たいと思うようになる。