「発信原稿 満洲軍参謀部諜報部」

学習院大学文学部史学科2年 長谷川怜 


 日露戦争中の明治37年(1904年)6月20日、満洲に展開する日本陸軍を統括するために「満洲軍総司令部」が創設された。総司令官に大山巌、総参謀長には児玉源太郎が任命された。その下の参謀部には「シベリア単騎横断」で有名な福島安正少将、井口省吾少将などが配され、この陣容で以後日露戦争の総ての陸軍作戦は行われたのである。
満洲軍総司令部は、配下にある第一軍から第四軍の統括のため、大陸各地に張り巡らせた情報・諜報網を用いてロシア軍の動向や動員兵力を察知し、また様々な謀略活動を行っていたのである。その際に、「情報畑」を歩んできた福島安正の能力がいかんなく発揮されたのは当然のことである。
 ところで、日露戦争中日本軍の行った諜報活動といえば「明石工作」として有名な明石元二郎大佐によるものが思い浮かぶだろう。明石大佐は欧州を舞台に、反ロマノフ朝勢力への資金援助や武装蜂起の煽動工作を行っていた [1]。しかし、実際に日露両軍が戦火を交えた満洲の地でどのような諜報活動が行われていたのかは、史料の不備からほとんど知る術がなかった。
 大正末に谷寿夫大佐(当時)が著した『機密日露戦史』第七章「全戦役間大諜報網の構成と実際」には満洲軍総司令部の行った諜報謀略としてページが割かれているが、その細部についてはつまびらかでない。理由としては、諜報活動は軍における最高機密であり高級軍人にさえも資料が公開されなかったため、もしくは谷は実際には資料の存在を知っていたが、情報の漏洩を防ぐために『機密日露戦史』を書く際、情報操作を行ったためという二点が挙げられよう。また陸軍機密文書の大半は、太平洋戦争敗戦の折GHQの手に渡ることを恐れた軍により焼却処分された [2]。
 ところが、一昨年「発信原稿 満洲軍参謀部諜報部」と名付けられた文書が発見された。この「発信原稿」[3] は驚くべき事に、満洲軍参謀部の諜報部が明治37年6月23日から翌年(明治38年)の6月30日にかけて、大陸各地に張り巡らせた「大諜報網」から寄せられる情報を分類・整理し各地へ送信した電文元原稿を綴ったものであった。
 この史料は、日本近代史の研究者であった筆者の祖父、長谷川昇によって40年ほど保管されていたものである。戦後の混乱期になんらかの形で軍から民間へ流出したのであろうか。ともかく、その入手経緯は明らかではない。
 2004年、2005年の日露戦争100年を契機として出版された『日露戦争』[4] を読んだ筆者は、関係者を通じて鑑定を依頼、防衛研究所などでの鑑定を経て真正の明治期文書であることが確認された。
 総ページ数900枚にも及ぶこの文書は、「陸軍」「大本営」「満洲軍総司令部」の名が入った罫紙に書かれているが、ところどころに福島少将の直筆手紙が挿入(全部で13枚)されるなど、史料的価値は非常に高い。その概要については『軍事史学』(166号)[5] 上で発表され、また毎日新聞でも史料発見が報道された [6]。ここでは実際の史料写真を用いながら、更に詳細に、史料の中からトピックとなるようなもの、史料の性格をよく表すもの(エッセンス的なもの)を選抜して以下のような形態で紹介してゆきたい。以下に、連載形式を例として挙げておく。



@「満州軍総司令部諜通第一号
明治三十七年六月二十三日
第一、二、三軍第十師団参謀長総司令官ヘ
東郷連合艦隊司令長官ノ報ニ依レハ今二十三日午前十一時旅順口内ノ敵ノ艦隊(戦闘艦ハ四若ハ五隻ニシテ総計九隻)及駆逐艦ヲ挙ケテ旅順口外ニ出タリト」


 これは、満洲軍総司令部創設後、初めて発信された電文である。第一・第二・第三軍・第十師団参謀長と総司令官(大山巌)に宛てられたもので、連合艦隊によるロシア旅順艦隊の動向が報告されている。日本海軍は、将来的に来航が予想されるバルチック艦隊との合流を防ぐために旅順艦隊の殲滅を画策していた。陸軍に対してもかなり詳細な情報を報告し、常に警戒態勢をとっていたことがわかるだろう。


 この企画を提案して下さった本サイト管理者「よ〜いち」様に、この場をお借りして心からの御礼を申し上げる。


 1 稲葉千晴『明石工作 謀略の日露戦争』丸善ライブラリー 1995年
 2 明石大佐による諜報活動報告「落花流水」の原文や福島少将のシベリア単騎横断報告書もこの時灰燼に帰している。
 3 「発信原稿」(自明治三十七年六月二十三日至明治三十八年六月三十日 満洲軍参謀部諜報部)長谷川怜所蔵。
 4 軍事史学会編『日露戦争』(一、二)錦正社 2005年
 5 『軍事史学』(166号)、長谷川怜「日露戦争と戦場の諜報戦 発信原稿 満洲軍参謀部諜報部の再発見」 2006年
 6 毎日新聞 2006年9月1日朝刊(第一面)