虚子 |
碧梧桐 |
熱情を以てある事物に同感を表わす | 冷淡に社会を観察する |
理想派であり、俳句は理想に傾く | 写実派であり、俳句は写実に傾く |
熱きこと火の如し | 冷ややかなること水の如し |
草木を見るは猶有情の人間を見るが如し | 人間を見るは猶無心の草木を見るが如し |
推理的の知識によりて秩序的の進歩を為す | 頭脳の不規則なる発達を為す |
虚子と碧梧桐の出会いは中学であった。その当時の事を碧梧桐は次のように回顧している。
「虚子と私との交際は、中学に入ってクラスを一処にしてからであった。クラス中の有志で、回覧雑誌のようなものを始めてから、その有志の中でも親しい仲になった。虚子は小学校時代からの秀才で、いつでも一、二番の首席を争っていた。私は弥次と腕白で通ったまアまアガラガラ書生だった。虚子には「聖人という綽名があった。無口で謹厳で、串戯一つ言わなかったからであろう。私の綽名は本名の「ヘイ」で通っていた。聖人とヘイとは放課後よく往来したものだったが、学校の書物や宿題などをお互いに勉強したことは一度も無かった。回覧雑誌はたしか「四州会雑誌と言ったように記憶するが、その誌面は、聖人よりもヘイの方が牛耳っていた形だった。自然二人の間の話は、詩歌小説などの文学談を主にして、いつとなく未来の大文者を夢見る点で共鳴していた。」
< 「子規を語る」より >
子規没後の内部分裂を恐れた内藤鳴雪は、明治三十五年の「ホトトギス」で解散、分裂することなく協同して子規の精神を継承することを訴えた。しかし、虚子と碧梧桐の対立は明治三十六年から始まってしまう。この年「ホトトギス」で「温泉百句」を発表した碧梧桐に対し、虚子は「温泉」や「湯」の文字を入れることで百句揃えた不自然な失敗作であると批判。これに碧梧桐が反論する形で、「ホトトギス」紙上での両者の応酬は年末まで続いた。さらに翌年には虚子の選句に碧梧桐が抗議して再度論戦が行われた。ちょうど日露戦争が始まるころから虚子と碧梧桐の対立も始まっていたのである。
明治三十八年頃から碧梧桐は五七五調や季題にとらわれない「新傾向俳句」を提唱し、自由律俳句誌『層雲』を主宰する荻原井泉水と共に句作活動を行うようになる。
さくら活けた花屑の中から一枝拾ふ
温泉めぐりして戻りし部屋に桃の活けてある
網から投げ出された太刀魚が躍つて砂を噛んだ
ミモーザを活けて一日留守にしたベッドの白く
これに対して虚子は五・七・五の定型調や季題といった伝統を守る立場を強調し、客観写生を旨とすることを主張し、「守旧派」として碧梧桐に対抗した。
桐一葉日当りながら落ちにけり
春風や闘志いだきて丘にたつ
大空に又わき出でし小鳥かな
白牡丹といふといへども紅(こう)ほのか
この俳壇を二分した対立の中で「ホトトギス」は勢力を拡大し、虚子は大正・昭和俳壇の中心となっていく。一方、少数派となった碧梧桐は漢語にフリガナを振る「ルビ俳句」などに手を出すが支持を得られず、還暦を機に俳壇から引退することとなった。
このように後年になって俳句で対立した二人であったが、その友情は終生変わる事はなかったという。碧悟桐の死に際して、虚子は「碧梧桐とはよく親しみよく争ひたり」と述べ、次の句を詠んだ。
たとふれば独楽(こま)のはぢける如くなり