正岡子規の死後、俳壇は高浜虚子を中心とする「ホトトギス派」と、河東碧梧桐を中心とする「新傾向句」に分かれる。「新傾向句」が五七五調や季題にとらわれない新しい句作を提唱したのに対し、「ホトトギス派」は五七五の定型調や季題といった伝統を守り、客観写生を深めることを主張した。その後、大正〜昭和初期には「ホトトギス派」が俳壇の主流となり、そこからさらに「馬酔木」、「天狼」、「人間探求派」などが派生していく。
虚子を中心とする「ホトトギス派」は「四S」と称された水原秋桜子、山口誓子、阿波野青畝、高野素十らを中心に勢力を拡大したが、後に「客観的写生」を唱える虚子、素十と、「主観的写生」を唱える秋桜子とが対立。秋桜子はホトトギスを脱退・独立し、主宰する「馬酔木(あしび)」を中心に主観的な叙情俳句を追求した。野球好きな秋桜子はナイターの句も詠んでいる(東京帝大在学中の野球対抗戦では、秋桜子と素十はバッテリーを組んでいたという)。
その後、「馬酔木」を辞した山口誓子が「天狼」を創刊。また「馬酔木」の中で秋桜子から「難解派」と呼ばれていた中村草田男らが「人間探求派」として独立した。草田男は子規の「写生」を受け継ぎ深化させつつ、さらに人間の内面心理も詠むことを追求した。
来しかたや馬酔木咲く野の日のひかり (水原秋桜子)
ナイターの光芒大河へだてけり (水原秋桜子)
流水や宗谷の門波荒れやまず (山口誓子)
天よりもかがやくものは蝶の翅(はね) (山口誓子)
勇気こそ地の塩なれや梅真白 (中村草田男)
降る雪や明治は遠くなりにけり (中村草田男)
碧梧桐は明治三十八年頃から自由律俳句誌『層雲』を主宰する荻原井泉水と共に句作活動を行うようになった。荻原は定型にとらわれない自由な韻律の句作を提唱。門下生には尾崎放哉、種田山頭火らがいる。
力一ぱいに泣く児と啼く鶏との朝 (荻原井泉水)
空を歩む朗々と月ひとり (荻原井泉水)
咳をしても一人 (尾崎放哉)
こんな良い月ひとりで寝て見る (尾崎放哉)
分け入つても分け入つても青い山 (種田山頭火)
まつすぐな道でさみしい (種田山頭火)