※第1回作戦参加の天津丸、武州丸、武陽丸はさらに沖合に沈没したため、地図には描かれていない。
連合艦隊による旅順攻撃以降、旅順艦隊は外洋での決戦を避けて港内で戦力温存を図るようになった。そのため、日本海軍は以前から計画していた旅順口の閉塞作戦を実行に移すこととなる。
連合艦隊参謀の有馬良橘中佐が中心となり作戦準備が進められた。各艦から乗員を募集したところ約二千名の応募があり、中には血書血判を提出する者さえいたという。第一回目の編成は下記の通りである。
・天津丸(4325トン)
指揮官 : 有馬良橘(第一艦隊参謀) 機関長 : 山賀代三(初瀬分隊長) 下士兵15名
・報国丸(2400トン)
指揮官 : 広瀬武夫(朝日水雷長) 機関長 : 栗田富太郎(敷島分隊長) 下士兵14名
・仁川丸(2800トン)
指揮官 : 齋藤七五郎(第一艦隊参謀) 機関長 : 南澤安雄(霞乗員) 下士兵14名
・武陽丸(1200トン)
指揮官 : 正木義太(高砂砲術長) 機関長 : 大石親徳(初瀬分隊長心得) 下士兵12名
・武州丸(1690トン)
指揮官 : 鳥崎保三(特別運送船監督官) 機関長 : 杉政人(常磐乗員) 下士兵12名
閉塞船5隻は2月23日夕方、連合艦隊に見送られて円島南東の洋上を出発。24日の午前0時頃に港口に侵入した。ロシア軍の砲撃を受ける中で各艦は目的地を見失い、広瀬の指揮する報国丸以外は港口から離れた場所で自沈した。その結果、港口を塞ぐことは出来ず作戦は失敗に終わったのだが、兵員の損害は軽微であった。
報国丸乗員。前列向かって右から三人目が指揮官の広瀬武夫。
(左)閉塞船を登舷礼で見送る戦艦の乗員達 (右)老鉄山東方の岩礁付近で爆沈した天津丸
閉塞作戦の中心人物であった有馬は、戦後もこの作戦についてはほとんど語ることがなかった。昭和10年に新聞社主催で行われた座談会にも出席はしたが、閉塞戦の話題になると「有馬さんは言いにくいだろうから・・・・」と小笠原や山路など他の者が代わりに語っている。
この座談会において、森山慶三郎は「その時は広瀬君は閉塞に反対だったと聞いた。しかし有馬さんが来て、指揮官になってくれと言うから、自分は反対だけれど「士は己を知る者の為に死す」という意気で引き受けたんだと、斯様に聞いております」と語ったが、これに対して有馬は「広瀬君には私から話しました」と言っただけで、この件についても詳細は語らなかった。