第二回旅順口閉塞

坂の上の雲 > 軍事 > 第二回旅順口閉塞

海戦の経過


※第1回作戦参加の天津丸、武州丸、武陽丸はさらに沖合に沈没したため、地図には描かれていない。


 第一回の作戦は失敗に終わったが、損害が軽微だったこともあって東郷は二回目の作戦実行を許可した。閉塞船は四隻、指揮官は第一回閉塞作戦に参加した者を再任。下士兵は第一回目に参加した者は二度と行かせないという方針で選抜した(二名の例外はあった)。編成は下記の通り。

 ・千代丸(3778トン)
  指揮官 : 有馬良橘  指揮官付 : 鳥崎保三  機関長 : 山賀代三 下士兵15名

 ・福井丸(4000トン)
  指揮官 : 広瀬武夫  指揮官付 : 杉野孫七  機関長 : 栗田富太郎  下士兵15名

 ・弥彦丸(4000トン)
  指揮官 : 齋藤七五郎  指揮官付 : 森初次  機関長 : 小川英雄  下士兵13名

 ・米山丸(3745トン)
  指揮官 : 正木義太  指揮官付 : 島田初蔵  機関長 : 杉政人  下士兵13名


 3月26日午後6時半、根拠地を出発した閉塞船は27日午前2時に港口に向かって単縦陣で直進した。しかし第一回目同様、ロシア軍の探照灯や砲撃による妨害で目的を達することはできなかった。
 広瀬が指揮を執っていた福井丸は、最初に自沈した千代丸の側で爆沈準備をしている最中に敵駆逐艦の雷撃を受けて浸水を始めた。そこで脱出のため総員後甲板に集合したが、杉野上等兵曹の姿だけが見あたらない。広瀬は「杉野、杉野」と呼びながら三度船内を探し回ったが、遂に見つからず脱出用のボートに乗り込んだ。その後、脱出中に敵弾を受けて戦死した広瀬は軍神と呼ばれるようになり、この時の様子は文部省唱歌の題材にもなった。


広瀬が閉塞前に記した七生報国の詩


連合艦隊に見送られて出発する福井丸


旅順港外で自沈した福井丸


旅順口付近に自沈した閉塞船。右から報国丸、米山丸、弥彦丸、福井丸。


 福井丸乗員。前列右の兵士が持っている大きい箱には広瀬の肉片が、小さい箱には杉野の遺髪が納められている。両端は戦死した兵卒の棺。中央で蓑にくるまれている人物は敵弾で重傷を負った栗田富太郎。



逸話

 旅順砲台の兵士であったペ・ラレンコの日記には第2回閉塞作戦とその後の様子が次のように記されている。

三月二十七日
 午前二時頃から盛んな砲声が聞こえた。暗夜であった。後、蒼白い月が出て薄い霧につつまれた海面を照らした。探照灯の光が港口に向かって進みつつある物影を照らした。哨艦及び陸岸砲台は共に砲火を開いた。湾内は沸き立った。マカロフ提督は汽艇に乗って直ぐに湾口に向かった。
 日本艦隊は六隻の駆逐艦に護られた四隻の大きな商船を以て港口を閉塞しようとしたのである。この時、月が再び隠れて闇となった。間断なき砲弾の炸裂は目を眩まし、その後はますます暗くなった。・・・(中略)・・・光景壮烈を極め、実際に見た者は恐怖に戦(おのの)いた。

四月三日
 先日旅順港口閉塞を試みて戦死した日本の将士のために葬式が営まれた。その中に将校が一人あった。広瀬少佐だ。葬式はすべて軍の礼を用い、棺は日本の軍旗で包み、儀仗護送兵と楽隊をつけた。多数の群衆がこれを見送った。・・・(以下省略)・・・。



 なお、2005年にロシアで放映された「世界の諜報戦」という記録映画では、軍外套を着た損傷のない広瀬武夫の遺体、ロシア海軍によってその遺体が埋葬されるシーンなどが映っているという。詳細については、この記録映画に携わった川村秀氏より戴いたこちらの資料を参照。

【追記】
 2009年に出版された文藝春秋臨時増刊「 『坂の上の雲』と司馬遼太郎」に川村氏が寄稿された「軍神 広瀬武夫・死の真相」では、上記ペ・ラレンコの日記が掲載され、当サイト管理人が資料提供者として紹介されている。編集長に後日伺ったところ、このページが企画のきっかけになったとのこと。



 太平洋戦争終結直後に、「旅順港閉塞作戦で広瀬と共に戦死したとされている杉野孫七兵曹長は満州で生きていて、復員船で兵士と共に帰国する」という噂が流れた。また、戦時中に中国で杉野と会ったという人も数人あらわれ、その人達の証言によると杉野は「船倉の爆薬に点火しようとした時に、ロシア軍の魚雷が福井丸に命中し、その爆風で海中に投げ出された。その後、現地の漁師に助けられ、戦後に帰国しようとして釜山から家族に電報を打ったところ、親戚が来て『お前は広瀬中佐と共に軍神になっているから、今さら生きて帰ってこられては困る』と言われ、帰国を断念した。今は関東軍の特務機関で働いている」と語ったといわれている。しかし、杉野と思われる人物は帰国せず、その後の消息や本人かどうかは不明なままである。 (→ 詳細は「日露戦争秘話  杉野はいずこ」(林えいだい著)を参照)



 千代丸で第二回閉塞作戦に参加した鳥崎保三は、日露戦争三十周年の昭和10年に出版された「海軍歴戦将校秘話」の中で、『栗田富太郎少将の話でありましたが、第二回閉塞の時、秋山真之参謀が広瀬中佐を閉塞船に見送りに来て話さるるには「閉塞もこの前の様に敵の砲火が劇しくては容易ではあるまい。かの様な場合はむしろ退いて、再挙を計る方が万全の策かもしれぬ」と。広瀬中佐これを否定して、「たとえ砲火が劇しかろうが、何だろうが、既に決した以上、もはや躊躇すべきではない。断じて行えば鬼神も避くさ。成功の秘訣は邁進のみ勇進のみ、豈他あらんや」と言い応酬されたそうであります。』と述懐している(このエピソードは、文春文庫「坂の上の雲」第三巻 258頁と275頁で紹介されている)。鳥崎はこの両者のやり取りについて、『智将と勇将いずれにも理屈はありましょうが、面白い対照だと存じます』との感想を述べている。