星亨 と 伊庭想太郎
星亨 (1850〜1901)は自由党で活躍し、大同団結運動を組織。代議士、衆議院議長、駐米公使、逓相などを歴任。東京市会疑獄で職を追われた。「坂の上の雲」では、米国留学中の真之のけんか相手(?)として登場している。
星を暗殺したのが伊庭想太郎 (1851〜1903)。伊庭家は幕府の剣術師範役。兄の八郎は幕府軍の遊撃隊を率いて箱館五稜郭で官軍と戦い死去。戊辰戦争後に家督を継いだ想太郎は家塾 文友館を開設して地域教育に貢献。東京農学校の校長や日本貯蓄銀行の頭取も務めた。 「坂の上の雲」では、佐藤鉄太郎に心形刀流の極意を教えた人物として登場する。
佐藤が少佐になったのは明治三十一年。その翌年には渡英しているので、この年に伊庭から心形刀流の極意を教わったと思われる。
そして明治三十四年、子規の随筆にも星と伊庭が登場する。
星亨訴へられ、鳩山和夫訴へられ、島田三郎訴へらる。
(墨汁一滴 二月三日)
鳩山和夫は後の首相 鳩山一郎の父(つまり、民主党の鳩山元代表の曾祖父)。 星は逓信大臣の時から収賄や汚職の疑惑があった。この文章が書かれた頃、星は東京市会議長を務めていたのだが、星派の議員達が収賄容疑で次々と検挙されていた。明治三十四年六月二十一日、星は政界の金権腐敗に怒った伊庭によって暗殺される。
その数日後の子規の随筆。
刺客はなくなるものであらうか、なくならぬものであらうか。
(墨汁一滴 六月二十三日)
板垣伯岐阜遭難の際は名言を吐いて生き残られたので少し間の悪い所があつた。星氏の最期は一言もないので甚だ淋しい。願はくは「ブルタス、汝もまた」といふやうな一句があると大いに振ふ所があつたらう。
(墨汁一滴 六月二十四日)
明治十五年、暴漢に刺された板垣退助は「板垣死すとも自由は死せず!」と言った。その後、板垣は一命を取り留めたが自由民権運動は下火になっていった。そのため、世間からは「板垣は生きたが自由は死んだ」と言われてしまった。
(余談:昔聞いた落語。「・・・中学校の日本史のテストで『板垣退助は刺されたときになんと言ったか』という問題が出たんですけど、私の友達が『痛いっ』って書いたんですよ。そうしたら、先生がその解答を△にして点数を半分くれたんです。・・・」)
星も刺された瞬間に何かを言おうとしたようだが、剣豪の伊庭にさらに一突きされ、言葉を発する間もなく絶命した。
この事件が起きた時、佐藤は米国に駐在中であった。
新聞の号外来る。曰く伊庭想太郎無期徒刑に処せらる。
(仰臥漫録 九月十日)
この十日後、子規は仰臥漫録に蚊帳の略画を描き、その画中に次のような句を加えた。
病人の息たえだえに秋の蚊帳
病室に蚊帳の寒さや蚊の名残
残る蚊や飄々として飛んで来る
秋の蚊のよろよろと来て人を刺す
秋の蚊の源左衛門と名乗けり
└ 伊庭想太郎カ
「源左衛門」の横に小さく「伊庭想太郎カ」と書かれているのは、蚊が伊庭のような刺客として自分を刺しにきた、ということだろう。