日本海軍の軍人

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東郷平八郎(1847〜1934)

薩摩藩出身。薩英戦争、戊辰戦争に従軍。明治4年からイギリスに留学し、帰国後は浪速などの艦長を務める。日露戦争では連合艦隊司令長官として日本海軍を指揮し、丁字戦法でバルチック艦隊を破る。戦後、元帥となり、海軍に大きな影響を与え続けた。

 episode 〜

 英国留学から帰国した直後、東郷は士官として比叡に乗艦することになったが、八年間も留学していたので日本海軍の号令がよくわからず、英語や薩摩弁の号令を発していた。兵員達は東郷が何を言っているのかほとんど理解できなかったので、これを見かねた同僚が注意すると、東郷は「どんな言い方でも、上官が下に発すれば命令である」と言って、我流の号令を押し通した。

 天城の副長として仁川警備をしていた頃、東郷は公使館付武官と共に袁世凱を訪ねた。袁は若い日本人将校の訪問を喜び、一段高いところから見下ろすような態度で、世界や東洋の情勢、日清親善について力説した。1時間ほど弁じ立てた袁は、東郷らが何か答えるのかと期待していたが、東郷は「分からん」と一言答えただけであった。

 日露戦争終結後のある日、英国海軍協会から東郷のもとに一つの小包が届いた。開けてみるとネルソン提督の遺髪の一部と胸像が入っていて、そこに添えられていた手紙には、『日本海海戦の偉勲に対してこの二品を贈呈する。ついては甚だ不躾ながら、閣下の毛髪を頂戴して、記念のため本協会で永久保存したい』と書かれていた。東郷は躊躇していたが、小笠原長生に説得されて自分の毛髪を英国海軍協会に送ったという。

 英国王戴冠式のため渡英した東郷は、留学中に乗船していた練習船ウースター号の卒業生達が歓迎会を開いた。その席上、東郷のもとに一通の手紙が届けられた。それは日清戦争時に東郷が撃沈した高陞号の艦長だったガルス・ウオルスエーからの手紙で、『私は高陞号撃沈の際、救助されて軍艦浪速に移されたときに、あなたとは浅からぬ因縁があることを知りました。私もあなたと同じようにウースター号で海事を学び、あなたの二期後に卒業しました。だから私もこの歓迎会に参加する資格を有しているのですが、高陞号事件のこともあるので、今回は遠慮させていただきました』 と書かれていた。これを読んだ東郷はその奇縁に驚くと共に、撃沈事件の際に艦長がこの関係を一言も言わなかったところに、いかにも英人気質が現れていると賞賛した。


島村速雄(1858〜1923)

土佐藩出身。日清戦争では常備艦隊参謀として出征。日露戦争では連合艦隊参謀長、黄海海戦後は第2戦隊司令官となる。戦後は海軍兵学校校長、軍令部長、軍事参議官などを歴任した。

 episode 〜

 日本海海戦前夜、第2戦隊の旗艦磐手の川島令次郎艦長は、司令官である島村の部屋を訪ねたときに「あすを知らぬ 身をも忘れて 思ふかな 幾萬世の 国の御栄」という自作の和歌をテーブルの上に置き、その後、十数分ほど艦内を視察しに行った。川島が自分の部屋に戻ると、机上に島村からの返歌が置いてあった。「副直の 入り来るたびに 思ふかな 敵見ゆるとの 電持ち来しかと」。この数時間後、本当に副直が島村のところへ「敵艦見ゆ」という電報を持ってくることになる。

 日本海海戦での戦闘終結後、島村は川島艦長、竹内重利参謀とシャンペンで祝杯をあげることにした。しかし、コップがほとんど壊れていたので、シャンペン用、葡萄酒用、ゼリー用の3種類をなんとか揃えることができた。島村が川島にシャンペン用のコップを勧めると、「いえ、これは司令官がお持ちにならなければ・・・」と川島が遠慮した。すると「いや、僕は今日の戦は見物していただけだから、よく働いた艦長がこのコップを使えばいい」とさらに勧め、けっきょく川島がシャンペン用を持つことになった。この話は川島が「小さな話だが、島村司令官の性格がよく現れていると思う」と戦後の談話会で語った。

 日露戦争中は作戦のほとんどを秋山真之に任せていたが、真之が旅順港閉塞戦でロシア軍に攻撃された駆逐艦「暁」の負傷者収容を途中でうち切って反撃しようとしたときに、「瀕死の負傷者をうち捨てるとは何事か」と叱りつけたという。また、日本海海戦では海防艦「ウシャーコフ」を追撃したときに、まずは降伏勧告を送り、相手がそれに応じないことを確認してから砲撃、敵艦沈没後は乗組員救出に当たり、422名の乗組員のうち339名を救助した。

 戦後は自分の功績を誇るようなことをせず、雑誌『太陽』で行われた各界著名人の人気投票で島村が海軍の一位になった時も、「自分はその栄誉に値しない」と言ってこれを辞退し、記念品すら受け取らなかった。


加藤友三郎(1861〜1923)

黄海海戦後に、島村速雄の後任として連合艦隊参謀長に就任。戦後は海軍大臣として、「八八艦隊建造計画」などの軍政面で能力を発揮。大正10年のワシントン会議には全権として出席。大正11年に首相になるが、在任中に死去。

 episode 〜

 日露戦争では島村や真之が目立ち、第一次大戦では日本艦隊の主力を率いて出撃したがドイツ海軍が早めに撤退して戦闘が起こらなかったので、軍人としての武勇伝は少ない。しかし、軍政面でその才能を発揮した。ワシントン軍縮会議に全権として参加した加藤は、当時日本が計画していた「八八艦隊(戦艦八隻、巡洋艦八隻)」が国家財政の大きな負担となると考えており、基本的に軍縮には賛成であった。海軍軍令部内などでは対米比率6割に対する強硬な反対意見も多かったが、加藤はそれを抑えて軍縮を実現させるとともに、アメリカに対してフィリピンやグアムなどで軍事施設の強化を行わないように約束させた。

 軍縮会議終了後、加藤は海軍省に次のような電報を送った。『国防は軍人の専有物にあらず。戦争もまた軍人にてなし得べきものにあらず。国家総動員してこれにあたらざれば目的を達しがたし。平たくいえば、金がなければ戦争ができぬということなり。・・・(中略)・・・日本と戦争の起こる可能性のあるのは米国のみなり。仮に軍備は米国に拮抗するの力ありと仮定するも、日露戦争のときのごとき少額の金では戦争はできず。しからばその金はどこよりこれを得べしやというに、米国以外に日本の外債に応じ得る国は見当たらず。しかしてその米国が敵であるとすれば、この途は塞がるるが故に、結論として日米戦争は不可能ということになる。国防は国力に相応ずる武力を備うると同時に、国力を涵養し、一方外交手段により戦争を避くることが、目下の時勢において国防の本義なりと信ず。すなわち国防は軍人の専有物にあらずとの結論に達す」
 しかし、この文書は、太平洋戦争終結後まで海軍省の金庫に機密文書として封印されたままとなり、それ以前に人目につくことはなかった。


 

鈴木貫太郎(1867〜1948)

日清、日露戦争では、駆逐艦隊を率いて活躍する。戦後は海軍次官、連合艦隊司令長官、侍従長などを歴任。二・二六事件で青年将校に襲撃されるが、一命を取り留める。昭和20年4月に首相に就任し、終戦工作に奔走する。

 episode 〜

 日本海海戦後、鈴木が司令部へ報告に行くと真之から「君の報告ではシソイベリイキ、ナバリンの二隻をやったことは明らかで、捕虜の証言ともよく合っている。しかし会議の席でシソイベリキはおれのところでやったんだと文句があった。みなで攻撃したんだから偽ではないが、君のところだけ二隻は多すぎる。一隻は他へ裾分けしたから承知してくれ」と言われた。鈴木は「よろしい」といって快諾した。

 次に東郷のところへ報告に行くと、「白昼のあなたの攻撃はよく見ていました」と言われ、その後も東郷は三十分ほど海戦の経過を語りだした。鈴木は後に「いつも黙っている人なのだが実際は雄弁な人なのだと思った。とにかく私は先にも後にもこんなに喜んで雄弁に語られた東郷さんを見たことがない。このことは私の終生忘れ難い感激であった」と自伝で回顧している。

 太平洋戦争末期の1945年4月、首相であった鈴木はアメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領が急死したときに、敵国元首の死に対して弔意を述べた。このことは、ニューヨークタイムズなどで大きく報じられ、鈴木の行動は各国で賞賛された。


広瀬武夫(1868〜1904)

日清戦争後からロシアの研究を始め、明治30年にロシアに留学。日露戦争では旅順口閉塞作戦を指揮し、戦死。海軍の軍神第1号となり、戦前は国定教科書に載っていた。

 episode 〜

 江田島の海軍兵学校で級長をしていたとき、広瀬はクラスの生徒を整列させようとしたが、そのうち一人がその命令に違反した。腹を立てた広瀬がこの生徒に鉄拳制裁を加えると、他の生徒たちも反抗的な態度になり、「彼を殴るなら自分も殴れ」と喧嘩腰で詰め寄ってきた。すると広瀬は怯むことなく「よし、打ってやるから整列しろ」と命令して全員を整列させると、一人ずつ殴り始めた。しかし、途中で乱闘になってしまい、職員が駆けつけてようやく騒ぎが収まった。この件で広瀬の退校処分も検討されたが、剛胆な人材を海軍から追い出すのはもったいないということで退校させられずにすんだ。

 日清戦争後、広瀬は部下とともに捕獲艦である鎮遠の清掃を行うことになった。「清掃はまず最も汚れた場所から行うべきだ」ということで便所へ向かったが、勤務とはいうものの敵兵の汚物掃除であるので水兵たちは躊躇した。その様子を察した広瀬は、率先して便所に入ると自ら爪でこびり付いた汚物を剥がし始めた。この広瀬の行動を見た水兵たちもその後は一生懸命清掃をしたという。

 明治23年、講道館の紅白試合で5人勝ち抜き、6人目で引き分けとなった広瀬は、試合後に嘉納治五郎からその場で弐段への昇段をゆるされた。また、旅順口閉塞作戦後に嘉納は「忠勇と思慮とを天下に示し、講道館柔道の精神を発起した」と讃え、戦死した広瀬を四段から六段へ昇段させた。

 

伊東祐亨(1843〜1914)

薩摩藩出身。薩英戦争参加後、軍艦の艦長を歴任し、日清戦争時では聯合艦隊司令長官として黄海海戦で清の艦隊を破る。日露戦争時は軍令部部長を務る。

 

八代六郎(1860〜1930)

浅間艦長として日露戦争に参加。戦後、艦隊司令官や海大校長などを歴任。シーメンス事件後に海相に就任し、事件の処理にあたる。

 


森山慶三郎(1870〜1944)

第4戦隊参謀として日露戦争に従軍。戦後は海軍省副官や艦長、戦隊司令官などを歴任した。兵学校で同期の真之とは親友であり、彼の葬儀委員長もつとめた。

 Episode 〜

 昭和十年、日露戦争に従軍した海軍関係者の座談会が行われた。小笠原長生、佐藤鉄太郎らが一通り東郷を称える逸話を紹介したあとに語りだした森山。
「小笠原君は東郷崇拝のオーソリティーだが(笑)、東郷さんが連合艦隊司令長官になったとき、この席にいる人で東郷さんが偉いと知っていた人は、戦前は有馬さん一人くらいだろうと思います。
 実は東郷さんが司令長官として来ると聞いても、その存在さえよくわからない物も少なくなかったようです(笑)。中には名簿を出してみて、誰がつけたのか、もう辞めてよかろうなどと×印が東郷さんのところについている(笑)。それで我々も知らんもんだからネ。戦争が始まるというのに、こういうような長官が来ちゃぁ、これは叶わん、困ったものだ、鹿児島の人だからよこしたのだろう。困ったものだネ、と言っていると東郷さんが来た。
 そのとき僕は梨羽司令官にお供して停車場に迎えに行ったヨ。その停車場から埋め立てのところのへ迎えに行ったのは、今はどうか知らんが、ホンの儀礼通りに艦隊の司令官と幕僚だけで貧弱なもんだヨ。
 君! 陸軍なんか馬上豊かに乗って歩くだろう(笑)。東郷さんという国宝が佐世保に着いたときのさびしい状況というものは、実に貧弱なものでしたよ。で、僕らはこんな人が俺らのとこの長官に来ちゃ叶わんと思った。埋立地をヨボヨボ下を向いて行くんだからね(笑)。それでますます困った。なんだか、こう下を向いてさ、小さな男で(笑)、名簿のところで×印の付いた男が先へ行くのだから、どうも困った。こういう長官が来たんじゃ・・・・と思いながら、ついて行った。
 そのうち、いろいろな人が、「東郷という人はえらい人だ」と言いだすから、なんだこいつ等、どこかでお世話になったんで長官を誉めるんだろう(笑)、僕らはそう思っていた。ところが一ヶ月ばかりすると、誰もが東郷さんに頭を下げる。水兵までが東郷さんが甲板を散歩していたと感服する。我々もソロソロ妙だなぁ・・・(笑)と思うようになった。
 それはまあ、有馬さんなんかは日清戦争の頃から偉いということをご承知だが、他の者は誰も知らない。ほとんど大部分は、こういう人が艦隊長官に来ちゃぁ困ると思ったに違いない。安保君なんかどうだった?(笑)」
急にとんでもない話を振られた安保が、「親父に聞いたよ。・・・・云々」と、東郷を称える逸話を紹介して無難にやり過ごすと、今度は森山、
「小笠原君は戦争前、東郷さんをどう思った? 無能とは思わなかったか?(笑)」
小笠原は慌てて否定。
「そんなことはない。人から聞いていた。ハワイに行ったろう。あの時、君も一緒じゃなかったかネ。領事館の風呂に入ったろう・・・」
すると森山が一言。
「いや違う。僕は行ってないヨ」
それでもめげずに、小笠原は東郷を称える逸話を語り続けた。

さらに座談会は進み、第一回旅順港攻撃の話題になった。
「敵側の戦史では〜と書かれており、・・・・」「ロシアの戦記によると・・・・」などと敵国側の資料も紹介しながら戦況を語っていた森山。第一回旅順港攻撃については小笠原、山路らと意見が分かれた。
山路「君は向こうの資料だけ信用するけど、砲台も相当撃ったよ」
森山「撃ったけれども、実際に撃って我が艦隊に届いたのは六インチ砲一台だけである」
山路「そうじゃないよ」
森山「中った弾で破裂したのは敵の海軍の弾だよ」
山路「破裂したのは海軍の弾かもしれないけど、相当撃ったよ。君はあの時戦場にいなくて、戦後ロシアで編纂した本を見て言うのだが、その本はあまり信用することができない」
森山「撃ったけれども・・・・フンダンと撃ったけれども空鉄砲ではないかと思う。それからもうひとつ、あの攻撃の時に敵のほうから来た報告がありますが、・・・・・云々」
その当事は旅順港方面ではなく仁川沖にいたことを指摘されたにも関わらず、痛いところを突かれて苦しみながらも森山は再び敵の資料を紹介して語り始めた。
  



伊集院五郎(1852〜1920)

薩摩藩出身。軍令部次長。大佐の頃、日本海軍の砲弾に使用された伊集院信管を考案。「月月火水木金金」という海軍の標語も彼が作った。
 

樺山資紀(1837〜1922)

薩摩藩出身。警視総監、海相などを経て、日清戦争では軍令部長。「西京丸」で黄海海戦に参加。下関条約で台湾割譲が決まると、台湾総督に就任した。
 

佐藤鉄太郎(1866〜1942)

第二艦隊参謀。妻は小笠原長生の妹。日本海海戦でスワロフの回頭を舵の故障と見抜き、バルチック艦隊の逃走を阻止する。戦後、「帝国国防論」を著す。


片岡七郎(1853〜1920)

薩摩藩出身。海軍兵学校卒業後、戦艦の砲術長、副長、艦長や鎮守府司令官などを務める。日露戦争では第三艦隊司令官として出征。 シーメンス事件後には軍法会議判士長に選任された。
 

日高壮之丞 (1848〜1932)

薩摩藩出身。戊辰戦争従軍後、海軍兵学寮に入校。軍事部・参謀本部勤務や戦艦の艦長、兵学校校長を経て常備艦隊司令長官となる。
 

山路一善 (1869〜1963)

松山藩出身。兄は佃一予、妻は山本権兵衛の娘。第3戦隊参謀として日本海海戦に参加。戦後は戦艦の艦長や戦隊司令官を歴任したが、軍縮に伴う整理で予備役へ。
 

財部彪 (1867〜1949)

日露戦争中は大本営参謀。山本権兵衛の娘婿ということで順調に出世し、艦隊参謀や海相を務める。全権となったロンドン軍縮会議が統帥権干犯問題に発展し、失脚。
 

加藤寛治 (1870〜1939)

黄海海戦に三笠の砲術長として参戦し、新しい砲戦指揮法を考案した。その後は連合艦隊司令官、軍令部長などを歴任。軍縮条約反対派の中心として海軍に影響を与えた。
 


安保清種 (1870〜1948)

三笠の砲術長として日本海海戦に従軍し、ロシア軍艦に覚えやすい仮名をつける工夫をした。戦後は軍令部次長、海軍次官、海相、貴族院議員などを歴任。
 

山本英輔 (1876〜1962)

第二艦隊参謀。山本権兵衛の甥。「予ガ大将ニナル日コレヲ開キ見ン」と書いて密封した母手製の袴を、大将に昇進した時に母親と一緒に開き涙を流したという話が残っている。
 

藤井較一 (1858〜1926)

第二艦隊参謀長。日本海海戦では島村速雄と共にバルチック艦隊の対馬海峡通過説を主張。戦後は軍令部次長、鎮守府司令官などを歴任。
 

瀬戸口藤吉 (1868〜1941)

軍艦行進曲の作曲者。海軍軍楽師・軍楽長として乗艦し、北清事変や観艦式などに参加した。日露戦争中は舞鶴海兵団付で、日本海海戦後に三笠に乗艦した。
 


小笠原長生 (1867〜1958)

唐津藩主の長男。海軍兵学校卒業後、艦隊勤務、軍令部勤務などを経て日露戦争では軍令部参謀。東郷平八郎の伝記など多数の著書がある。
 

山屋他人 (1866〜1940)

海大で戦術の講義や研究に才能を発揮し、丁字戦法の原型である円戦術を考案した。戦後は海大校長や連合艦隊司令長官などを歴任。皇太子妃雅子さまの曾祖父にあたる。
 


有馬良橘 (1861〜1944)

浪速の航海長として日清戦争に従軍し、高陞号事件にも関わった。日露戦争では常備艦隊参謀となり、旅順港閉塞戦を指揮。東郷平八郎の葬儀委員長を務めた。
 

黒井梯次郎 (1866〜1937)

日露戦争開戦時は佐世保鎮守府参謀だったが、後に編成された海軍重砲隊の指揮官として旅順攻撃に参加。戦後は艦隊司令官などを経て大将に昇進。
 

山下源太郎 (1863〜1931)

日露戦争中の軍令部参謀。戦後は軍令部次長、連合艦隊司令長官などを歴任。海軍兵学校校長として教育に尽力し、「江田島の名校長」と称された。
 


飯田久恒 (1869〜1956)

日清戦争では厳島乗員として威海衛夜襲に参加し、日露戦争では第一艦隊参謀。戦後、英国駐在を経て海大教官・教頭、艦長、艦隊参謀長、艦隊司令官などを歴任。
 

清河純一(1878〜1935)

第一艦隊参謀として日露戦争に従軍。戦後、軍令部参謀、海大教官、戦隊司令官、要港部司令官などを歴任。ワシントン軍縮会議の随員や国際連盟海軍代表も務めた。
 

山本五十六(1884〜1943)

日進の乗員として日本海海戦に参加し、ロシア艦隊の砲撃で負傷して左手の指二本を失う。昭和14年、連合艦隊司令長宮となる。昭和16年、真珠湾攻撃を立案し、作戦を実行。昭和18年、前線視察中に上空で待ち伏せしていた米戦闘機に搭乗機を撃墜され戦死。