日本の政治家、軍政家

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山本権兵衛(1852〜1933)

薩摩藩出身。日清戦争開戦前に西郷従道の後押しで海軍の人事刷新を行う。その後、海軍大臣として六・六艦隊整備、東郷平八郎の司令長官抜擢などで海軍を強化し、日本海軍の勝利に貢献する。戦後に2度首相になるが、シーメンス事件、虎ノ門事件で失脚。

 Episode 〜

 権兵衛が海軍兵学寮にいた頃、校長や職員らが寮の糞尿代で忘年会を開いたことがあった。これを聞いた権兵衛は「酒を呑みたい奴は俺についてこい」と言って、糞尿を詰めた樽を会場に持ち込んだ。
「僕等の糞尿でを飲んでいるそうですね。まだ残っている物を持参しました」
すると校長はあっさり降参し、
「君らのフンがまだ残っている。まあ飲んでくれ」
と言ったので、あとは学生らも飲み始めて大宴会となった。

 講和条約反対の焼き討ち騒ぎがあった晩、状況を視察してきた権兵衛の副官が海軍大臣官邸に報告に行くと、権兵衛は巡査一人を伴って出かけているとのことであった。さらに2時間ほど視察をしてきた副官が再び官邸に戻ると、権兵衛はすでに帰宅していて、二階から外の様子を眺めていた。副官が状況を報告すると、権兵衛は「俺も見てきたよ」と言った。大騒動の中、群衆に紛れて状況を視察に行った閣僚は彼だけであった。

 首相時代のある日、権兵衛の家に飯野吉三郎という行者が訪ねてきた。飯野は応対した山本家の取次に対し「昨夜、国家の一大事について神様のお告げがあった。よって総理大臣たる閣下にお知らせする。是非とも閣下にご面会したい」と告げた。このことを聞いた権兵衛は、取次に次のように答えさせた。「閣下は『自分も昨夜、神様からのお告げがあった。飯野吉三郎という者が行くかもしれないから、そんな者は相手にしてはならんとの御託宣だ。神様のお告げだから面会は相成らん』と申しておりましたので、お帰り下さい」。

 日清戦争中、広島の大本営に出張していた西郷従道と権兵衛のもとに、西郷夫人から綿入りのパジャマが届けられ、二人はこれを着て寒さをしのいだことがあった。
 それから数十年後、神経痛に悩まされていた権兵衛を心配した娘が厚手の上着を仕立てて届けた。すると権兵衛は「俺はもっといい物を持っているぞ」と言って、つぎはぎだらけでボロボロになった上着を持ち出してきた。「これは日清戦争の時に西郷のおきよさんから送られた物だ。もったいないから着られるだけ着ようと思って、俺がみんな繕ったんだよ」。

 ある夜、山本邸の玄関の戸を激しく叩き「火事です。起きて下さい」と叫び続ける者がいた。家人が起きて耳をすましたが、それらしい気配もない。強盗が戸を開けさせるためにウソをついているのではないかと心配して戸を開けるのをためらっていると、権兵衛が玄関にやってきた。見ると、彼は片手に刀、片手に棍棒を持っている。撃退の準備ができたところで戸を開けてみると、そこにいたのは警察官で、近所では本当に火事がおきていた。この一件は後で笑い話となったのだが、なぜ権兵衛が二種類の武器を持ってきたのかが分からない。そこで家族がそのことを尋ねると、権兵衛は「強盗が刃物をもっていたら刀で立ち向かうつもりだった。しかし、相手が刃物を持っていない場合は刀で立ち向かうのは卑怯だから、棍棒で戦うつもりだった」と答えた。
  

小村寿太郎(1855〜1911)

飫肥藩出身。文部省の第1回留学生に選ばれ、ハーバード大学で法律を学ぶ。明治34年に外務大臣に就任。日露戦争時は戦時外交を担当し、ポーツマス会議では全権としてロシアと交渉した。その後、不平等条約改正(関税権の獲得)を実現させる。

 Episode 〜

 ロシアとの講和談判のときは、一家全滅を覚悟して渡米した。国内の非難が高まったのを聞いた小村は、家族も無事ではないだろうと思い、知り合いから「留守宅は安全ですよ」と言われても信じなかった。講和会議後、船が横浜に着いたときに真っ先に訪ねてきたのが小村の息子であった。そのときになって初めて、小村は「お前はまだ生きていたのか」と言って喜んだ。

 西郷従道から「その小さな体で外国人の中に混じったら、子供のように思われるでしょう」と言われると、小村は「大丈夫です。私は日本を代表して行くのですから。日本は小さくても強いですからね」。

 日英同盟実現の功により、当時の閣僚は全員爵位を与えられた。ある人が小村に対し、「外相である閣下の栄誉は当然だが、他の閣僚にその資格があるとは思えない」と言うと、小村は笑って「同盟交渉の機密を厳守しただけでも、彼らにも授爵の価値はある」と答えた。

 小村は筆無精だったため、直筆の手紙はほとんど残っていなかった。その小村の手紙をたくさん持っているという人が居たのだが、その手紙というのは全て借金の申入書だった。

伊藤博文(1841〜1909)

長州藩出身。明治4年、岩倉使節団の一員として欧米を歴訪する。その後、工部卿、内務卿などを経て、明治18年に初代内閣総理大臣に就任。大日本帝国憲法の作成と発布に関わる。その後、韓国統監になり、明治42年、ハルビンで暗殺される。

 Episode 〜

 日本三景の一つとして有名な宮島を訪れたとき、伊藤は一軒の茶店に立ち寄った。茶店の少女がお茶を差し出したところ、伊藤はその手を取って「もみじのようなかわいい手だね。焼いて食べたら、さぞ美味しかろう」と言った。この話が広まって、『もみじ饅頭』が作られたと伝えられている。

 豊臣秀吉によってフグ禁止令が出された後、江戸期にも各地で禁令が出されるようになり、長州藩ではフグを食べて中毒死した場合はお家断絶という厳罰まで設けられた。明治になってからもフグに対する禁令が残っていた。
 明治21年頃、伊藤が下関の春帆楼を訪れたが、あいにくその日はしけで魚がなかった。「下関まで来たのに魚がないとは」と皮肉られた女将が、処罰覚悟で禁令のフグを出したところ、伊藤は「こんなうまいものを禁ずるのはもったいない」と言って、さっそく山口県令に命じてフグを解禁とした。
 その後、伊藤はこの「春帆楼」で李鴻章との日清講和条約交渉に臨むことになる。

西郷従道(1843〜1902)

西郷隆盛の弟。兄と共に戊辰戦争に従軍。西南戦争では新政府側につき、その後、参議兼文部卿、陸軍卿等を経て海軍大臣になる。近代海軍機構の整備を行い、初代海軍元帥になる。

 Episode 〜

 政務調査局を廃止するという問題で伊藤博文が怒りだしたので、困った山県有朋が西郷に仲裁を頼んだ。しかし、いつまでたっても議論が尽きそうにない。西郷は黙って伊藤の話を聞いていたが、それが終わると「えらい困ったことになりましたなぁ」と言って笑いだした。伊藤も笑いだし、結局その話はそれで終わってしまった。

 西郷が大山巌、樺山資紀と狩りに出かけたとき、山中で野宿することになったのだが、大山の鼾が大きくて近くで寝られるような状況ではなかった。西郷は樺山に「真ん中で寝ろ」と言うと、自分はできるだけ大山から離れたところで寝てしまった。

 山県内閣が地租増税案を提出したが、なかなか議会で通らないため、山県が伊藤に助けを求めた。そこで、伊藤は帝国ホテルに反対者らを集めて演説会をすることになった。その当日、遅れて会場にやってきた西郷は聴衆の間を丁寧に礼をしながら通り、さらに演壇前の自分の席に来ると聴衆の方を振り向いてあらためて一礼した。その態度は壇上で雄弁を振るう伊藤以上に聴衆の心を動かし、増税を賛成させる原動力となった。
  

高橋是清(1854〜1936)

若い頃に何度も仕事を変え、39歳の時に日銀に入る。日露戦争中は外債調達に奔走。その後、大蔵大臣として金融恐慌対策などで活躍。二・二六事件で襲撃され死亡。

 Episode 〜

 高橋は米国留学前、横浜にある英国人の銀行にボーイとして住み込み、働きながら英語の勉強をしていた。彼はすぐに馬丁やコックと仲良くなり、一緒に酒を飲んで悪ふざけをしていた。あるとき、鼠を捕まえて支配人シャンドのビフテキ焼きで焼いて食べていると、それを2階から見ていたシャンドから、「私の道具で鼠を焼くのだけは止して下さい」と注意されてしまった。それから約40年後、パース銀行の本店支配人に出世したシャンドは、政府財務委員としてロンドンに赴いた高橋の外債募集に積極的に協力してくれたという。

山県有朋(1838〜1922)

長州藩出身。奇兵隊長として戊辰戦争に参加。その後、陸軍卿、総理大臣、枢密院議長などを歴任し、徴兵制、軍事勅諭などの制定に関わる。人事においては長州閥を偏重し、元老として、権力を振るう。また、自由民権運動を弾圧し、政党政治と対立した。

 Episode 〜

 第一軍司令官として日清戦争に従軍した際、司令部の糧食係が洋食をだそうとした。しかし、司令部に洋食洋食器が20セットしかないことを知った山県は、「これでは全軍の将校にいきわたらない。司令部だけが特別な食事をすべきではない」と言って係を叱った。また、天長節の時に赤飯が炊かれたが、そのとき山県は「少しずつでもいいから、全ての兵卒に分け与えよ」と命じた。そのため、白米に数粒の赤飯が混じっている程度ではあったが、全軍の兵士に配られた。
 

桂太郎(1847〜1913)

長州藩出身。ドイツ留学後に陸軍の軍制改革を行い、フランス式からドイツ式に切り替える。日露戦争の際は首相。戦後も組閣するが、第三次内閣は護憲運動と対立して退陣。

 Episode 〜

 日露戦争の講和会議で賠償金を取れるとは思っていなかった桂だが、首相という立場上、虚勢を張っていた。しかし、その虚言に怒った一人の新聞記者から講和に反対され、桂も困ってしまった。数年後、桂のもとを訪れたその新聞記者が「先年は・・・」と謝ろうとしたところ、それを察した桂が先に「あの時は僕が悪かった。君を騙してすまなかった」と頭を下げた。

寺内正毅(1852〜1919)

長州藩出身。初代教育総監として、軍隊教育の体系を整えた。日露戦争時は陸相。戦後、初代朝鮮総督となり、民衆の反対運動を弾圧。のちに首相になるが、米騒動で退陣。

 Episode 〜

日露戦争中、寺内は「満州軍は食用として多くの牛を殺しているが、その皮は不要であろう。内地はその皮がなくて困っているから、送ってほしい」と言うと、それを聞いた児玉は「我々は戦争をしているのだ。そんなことまでできない」と断った。すると寺内は「軍事経営が困難なときなのに、児玉はただ勝てばよいと思っている。いかに安価に勝利を収めるかという考えが児玉にはないのか」と言い、児玉が帰国したときも大議論となった。このとき、仲裁に入った伊藤は、「たかが牛のことで喧嘩をしないでくれ」と二人を諭したという。 

井上馨 (1835〜1915)

長州藩出身。尊攘運動に携わり、イギリス公使館焼き討ちに参加。外相として条約改正交渉に携わり、欧化政策をすすめた。後に元老として政界に影響を与えた。

加藤高明 (1860〜1926)

東大卒業後、三菱に入社して岩崎弥太郎の娘と結婚。駐英公使や外相などを歴任し、第二次護憲運動後に首相に就任。普通選挙法、治安維持法を制定した。
 

斉藤実 (1858〜1936)

海軍兵学校卒業後、戦艦の副長・艦長を経て日露戦争中は海軍次官。戦後は各内閣の海相を歴任し、首相に就任。二・二六事件で暗殺された。

陸奥宗光(1844〜1897)

和歌山藩出身。海援隊に加わって尊攘運動に参加。維新後、ドイツの法学者シュタインから国家学を学ぶ。伊藤内閣の外務大臣として、治外法権撤廃の実現や日清戦争遂行に関わり、下関講和会議では全権を務めた。
 

渋沢栄一(1840〜1931)

徳川慶喜に仕え、水戸藩主に随行しパリの万国博覧会を見学する。維新後は民部省、大蔵省の役人になる。明治6年に第一国立銀行を設立し、企業の創設・育成に力を入れる。
 

星亨 (1850〜1901)

自由党で活躍し、大同団結運動を組織。代議士、衆議院議長、駐米公使、逓相などを歴任。東京市会疑獄で職を追われ、伊庭想太郎に暗殺された。

金子堅太郎 (1853〜1942)

藩の留学生としてハーバード大学で学び、帰国後は元老院で大日本帝国憲法の起草に従事した。その後は農商務相、法相、枢密院顧問などを歴任。
 

林董 (1850〜1913)

榎本武揚と共に五稜郭で戦い、その後、外務省に出仕して岩倉遣外使節に随行。日露戦争後に外相となり、日露協約・日韓協約を締結した。