「陣中日記」(金州、旅順)


 

 明治28年、子規は従軍記者として中国に渡った。 4月10日、海城丸で宇品を出港。 

 

 行かば我れ 筆の花散る 處まで

 出陣や 櫻見ながら 宇品まで

 

 

 船は13日に大連湾に入り、15日に柳樹屯に到着した。

 

 大國の 山皆な低き 霞かな

 

 上陸した子規はまず金州に行き、城門や戦跡などを見学。その後、一度海城丸に戻ってそこで二日ほど過ごし、19日に錦川丸という別の船で旅順に向かった。「陣中日記」にはその時の様子が次のように記されている。

 

 海上十余里十時頃出帆して一時頃には黄金山の砲台を檣頭に望む。

 

 砲臺の 舳にかすむ 港かな

 

 港口には軍艦数艘あり。港内に入れば軍艦商船大船小船狭き迄に居並べたり。此処こそ彼に在りて唯一の港なるを今は我等のものになりて数ならぬ身も肩に風を生ずるの想ひあらしむ。

(・・・中略・・・)

 そも旅順の地たる山脈を繞(めぐ)らしたる一の小港湾にして市街は岡陵に凭(よ)り一層は一層より高く造りなしたり。新たに開きたる港なればにや四方を囲む城壁もなく家屋は公署めきたる所多ければ西洋風の崇高なる建築立ち並びて金州よりは稍(やや)清潔なり。我等の宿所は旅順市の最高處に在り。此より下瞰(かかん)すれば二本の帆檣屹然(きつぜん)として眼下に聳(そび)ゆるもの鎮遠なり。船渠(せんきょ)に在りて日夜修繕を急ぐ音も錚々(そうそう)手に取るが如し。湾を隔てて巍然(ぎぜん)空を衝く者は黄金山の砲台なり。去年の戦争には何等の抵抗も無く風を望んで落ちたりと聞ゆ。模擬には右には老虎尾の砲台あり遠く饅頭山に連なる。左に(此字慥(たしか)ならず)勞律嘴の砲台あり堡塁長く二龍山に続きたり。見渡せば山又山、山巓(さんてん)の砲台は左右前後相望んで蟻の這い出る隙もなき天険の要害一朝にして土崩瓦解する国の末こそはかなけれ。

 

 

 翌日は東京日々新聞の黒田甲子郎と共に老虎尾、饅頭山などの砲台を見学した。また、市街地では演劇を鑑賞し、帰国後の「思出るまゝ」という随筆にその感想を記しているが、『能楽の古雅なるにも及ばず芝居の写実なるにも如かず殆んど意味の無き舞踏にしてしかも四角張りたらんが如し』と、その評価はあまり良くない。

 24日、金州に戻った子規のもとに碧梧桐から一通の手紙が届いた。それは従弟・藤野潔(古白)の自殺を知らせるものであった。

 

 夜半人静まりて後独り蝋燭をとぼして手紙を読めば病床の事こまごまと書きつづけたるに一字一句肝つぶれ胸ふたがりて我にもあらぬ心地す。人世は泡沫夢幻。世界は一夜泊まりの木賃と覚期して猶四鳥の別れこそ惜しまるれ。

(・・・中略・・・)

 春や昔 古白といへる 男あり

 

 

 翌日より帰国の日まで、子規は金州に滞在した。この頃には戦争はほぼ終結している。そのため、残り二十日ほどの間は周辺を散策して過ごした。以下、「陣中日記」の一部を抜粋。

 

 三崎山を越えて谷間の畑をたどれば石磊々(らいらい)として菫(すみれ)やさしう咲く髑髏二つ三つ肋骨幾枚落ち散りたるははや人間のあはれもさめてぬしや誰とおとづるるものもなし。

 

 亡き人の むくろを隠せ 春の草

  

*     *     *

 

 海の方へ二町許行けば左に突兀(とつこつ)たる小山あり。渤海湾一目に見渡して後は金州城を瞰むべし。山上には元と龍王廟あり。きのふの兵乱に堂宇哀れに打ち壊されて外壁ぞ残りたる。

 

 砂濱に 足跡ながき 春日かな

 

*     *     *

 

 条約交換も今日に迫りて復た休戦の噂など漏れ聞ゆ。心安からぬ事多かり。杖を携へて郭上に登り城内城外の景色など洽(あまね)く見渡すに杏花は全く散り尽くし今は桃梨菜花など誰が為とは知らで盛を競へり。原頭の草色さへ暫く深うして亡国の地とも知らずやあるらん。国破れて山河在りとそぞろに口ずさまれて哀れなり。

 

 花盛 ふるさとやいま 更衣

 

 梨老いて 花まはらなり 韮畑

 

 外壕の 水腐りけり 蛙の子

 

 戦の あとにすくなき 燕かな

 

 

 また、この日記には書かれていないが、金州滞在中に軍医として従軍していた森鴎外とも会っている。

 

 5月14日、大連港で佐渡国丸という船に乗って帰国。その船中で子規は喀血した。

 子規が従軍中に所属していた近衛師団では、記者達に対する処遇はひどいものであった。最初の頃は軍が宿舎の斡旋を行わなかったため、記者達は自ら宿を探さなければならなかった。さらに、宿が見つかってもそこでは数日しか泊まることができず、宿泊先を転々とすることになった。土間で寝起きしたこともあったという。従軍僧との待遇に差があることを抗議した子規に対し、管理部長は「君らは無位無官じゃないか。無位無官の者なら一兵卒同様に取扱われても仕方がない」と言い放つ。子規はこの一言を聞いて帰国を決意したという。子規と共に旅順を見学した黒田は後に、「(将校は)報道ということに何の価値も認めぬどころか、軍状をスパイされるぐらいに考えていた。だから、一椀の食も、一枚の毛布も与えなかった」と周囲に語り、陸相の宇垣一成には「子規を殺したのは軍だ」と大声叱咤したこともあった。昭和26年、松山で『肉弾』の著者である桜井忠温が「正岡従軍記者」と題する講演を行った。桜井はそこで黒田から聞いた話を紹介し、「子規が三十六歳で倒れた原因は、黒田の言うとおり、軍が作ったのである」と述べた。子規もある意味、戦争の犠牲者ということになるのかもしれない。