日露戦争に従軍した著名人

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森鴎外(1862〜1922)

作家、医学博士。本名、林太郎。第2軍の軍医部長として日露戦争に従軍。脚気の原因を細菌によるものと勘違いし、多くの病死者を出すことになった。乃木希典の殉死を機に歴史小説に転じ、「阿部一族」、「高瀬舟」などを発表していく。

 Episode 〜

  西洋の兵学書で最も有名なクラウゼヴィッツの「戦争論」を初めて邦訳したのが鴎外であった。彼がベルリン滞在中に記した「独逸日記」には、当時留学生だった田村怡与造のために「戦争論」の講義を行ったと書かれている。

 大正5年に行われた夏目漱石の葬儀で受付をしていた芥川龍之介の前に、ひとりの人物が現れた。芥川は後に「その人の顔の立派なる事、神彩ありというべきか、滅多に世の中にある顔ならず、名刺をみれば森林太郎とあり」 と書いている。この日の鴎外の日記には、午前中は漱石の葬儀に、午後は大山巌の葬儀に向かったと書かれている。大山は漱石より1日後に亡くなっていた。

田中義一(1864〜1929)

満州軍参謀(作戦課)として日露戦争に従軍。戦後は、軍務局長、参謀次長、陸相を経て首相となる。首相在職中に山東出兵を行う。張作霖爆殺事件で天皇の信任を失い、総辞職した。

 Episode 〜

  田中内閣の陸相を務めたのは白川義則であるが、この二人には不思議な縁がある。白川が幼少の頃、隣家に長州出身の書生が居候していた。あまり行儀の良くない人物だったらしく、白川の母も「お隣に住んでいるノッポの書生さんは箒の掃き方が雑で、小石を飛ばしてばかりいる」などと言っていた。そして数十年後・・・、「田中さんは松山に住んでいましたよね。私は子供の頃に田中さんを見ましたよ」「そういえばあの頃、隣に白川という一家が住んでいたが・・・・、あの家の子供は君だったのか!」。ちなみに、白川は当時の田中の事を「何しろ乱暴な書生だった。俺の家の方へゴミを掃き飛ばすし、ウラの垣根から垣根をたたき落としたりしたよ」と語っている。

岡田啓介(1868〜1952)

春日の副長として日本海海戦に参戦。その後は海軍軍事参議官、第1艦隊司令長官兼連合艦隊司令長官、海相を経て首相となる。在職中の二・二六事件では官邸の一隅に隠れ難を逃れた。

米内光政(1880〜1948)

駆逐艦「電」の乗員として日本海海戦に参加。後に海相となり、山本五十六と共に三国同盟に反対した。首相にもなるが短命内閣で終わる。鈴木貫太郎内閣でも海相を務め、終戦工作に奔走。終戦後も留任し、日本海軍の最期を見届けた。

小磯国昭(1880〜1950)

日露戦争では、第一軍所属部隊の小隊長として遼陽会戦から奉天会戦まで戦い抜く。1944年、東条英機内閣総辞職後に首相となるが、沖縄陥落の責任をとって翌年4月に辞任した。

白瀬 矗(1861〜1946)

秋田県出身。陸軍教導団騎兵科卒業後、児玉源太郎の勧めで千島探検隊に参加。日露戦争では輜重中尉として従軍。明治44年に南極探検を行った。

寺内寿一(1879〜1946)

寺内正毅の長男で、親子2代陸軍元帥。日露戦争では第一軍司令部付。その後、陸相などを歴任し、太平洋戦争中は南方軍総司令官。

荒木貞夫(1877〜1966)

梅沢旅団の副官として従軍。その後は教育総監本部長、陸相などを歴任。皇道派の将校に影響力があり、二・二六事件に関わる。戦後、A級戦犯として終身禁固刑。

松井石根(1878〜1948)

歩兵第6連隊中隊長として従軍し、後に第2軍副官。その後、師団長などを経て上海派遣軍司令官となる。戦後、南京大虐殺の責任者とされ、極東軍事裁判で絞首刑。

永野修身(1880〜1947)

海軍重砲隊の一員として、旅順砲撃に参加。その後、海相、軍令部長、連合艦隊司令長官の三職を歴任。元帥として日米開戦に大きな影響を与えたため、A級戦犯として禁固刑。

梅津美治郎(1882〜1949)

歩兵少尉として、旅順総攻撃に従軍。数回感状を受ける。1944年に東条英機の後任として参謀総長となり、徹底抗戦を主張。終戦後、ミズーリ艦上で降伏文書に署名。

林銑十郎(1876〜1943)

日露戦争では一戸旅団の副官として旅順攻撃に参加し、感状第一号となる。戦後、斎藤、岡田内閣で陸相となり、1937年に首相に就任。しかし、解散総選挙で大敗して4ヶ月で総辞職。