黒溝台会戦

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戦闘の経過

 沙河会戦後、日露両軍は数ヶ月に渡る対陣状態が続いた。この状況を打開すべく、明治三十八年一月にロシア第二軍司令官グリッペンベルグは約10万の大軍で日本軍左翼への総攻撃を決行した。日本軍左翼は秋山好古率いる秋山支隊が、約30kmの戦線をわずか8000の兵力で守っていた。好古はロシア軍を迎え撃つために主要拠点に野戦陣地を構築し、さらに機関銃を配備して敵襲に備えていた。
 戦線前方で騎兵による哨戒活動を行い敵軍南下の動きを掴んだ好古は、総司令部に援軍を要請。いかし、作戦参謀の松川は威力偵察程度としか考えておらず、この要請は無視された。

 一月二十五日、ロシア軍が行動を開始した。好古直卒部隊が守備を担当する李大人屯方面では、北方の黒林台を守る日本軍前哨が敗退。李大人屯もロシア軍の砲撃を受け始める。敵の攻撃目標が韓山屯付近であると考えた好古は、豊辺支隊に対して三岳支隊救援を指示した。
 一方、敵襲の報告を受けた満州軍装司令部は敵兵力を過小評価していたため、第八師団のみに出動を命令。狼洞溝付近に集結した第八師団は黒溝台に向かって進軍を開始した。この時、第八師団参謀長の発案で総司令部は黒溝台の放棄を決定することとなり、命令を受けた種田支隊は日没後に黒溝台から退却した。

 二十六日、立見師団の司令部が大台に到着し、各旅団の部署を決定した。しかし、その直後から敵軍に囲まれ、黒溝台の奪還どころか沈旦堡の救援すらできない状況であった。この頃、戦線南方ではミシチェンコ騎兵団の襲撃を受けた五家子の守備隊が蘇麻堡へ退却、牛居の歩兵部隊も柊二堡へ退却、さらに豊辺支隊が守る沈旦堡も包囲されるなど、各方面で苦戦が続いていた。各方面での戦況悪化を知った総司令部は、さらに第五師団の派遣を決定することとなる。



一月二十六日の戦況(図をクリックすると拡大図を表示します) 〜 「明治卅七八年日露戦史」 第七巻付図 第十一〜


一月二十六日の沈旦堡周辺の戦況 〜 「明治卅七八年日露戦史」 第七巻付図 第十一〜



 翌二十七日には三尖泡の繃帯所が敵騎兵の攻撃を受けて蘇麻堡へ後退。そこで狼洞溝に到着した第五師団は、この方面を支援するために村山支隊を編成した。この頃になってようやく総司令部もロシア軍が左翼を突破し包囲攻勢をかけようとしているという事に気づき、さらに第二師団、第三師団の派遣を決定した。

 二十八日、第二師団が大藍旗に到着。さらに第三師団も戦場に到着し、隷下の歩兵第十八連隊が唖叭台に進出して敵軍を撃退した。先に到着していた第五師団は豊辺支隊左翼に展開し柳条口を占領。 第八師団は蘇麻堡で苦戦を強いられるが、翌二十九日に 黒溝台を夜襲し奪還する。すでに二十八日にクロパトキンより退却命令を受けていたロシア軍は黒溝台方面から撤退し、日本軍左翼壊走の危機は去った。






秋山支隊の司令部
中列左から三人目が好古、その右が田村久井、豊辺新作



好古と騎兵旅団



一月十六日、北台子(沈旦堡北方)付近でロシア軍と戦う日本軍前哨



沈旦堡西方を行軍中の騎兵第十四連隊



黒溝台に於ける臨時立見軍司令部



逸話

  好古は会戦中に何度か騎兵砲陣地の戦況視察を行った。その度に副官や書記から「閣下、今は危険ですから、どうかお出にならぬように」と押し止められたが、「まあ、ええよ」とその手を押しのけ、砲声轟き、硝煙に覆われ、傷ついた人馬が呻きうごめく凄惨な状況下の陣地で泰然と敵情を見入っていたという。


  黒溝台会戦中、立見の司令部周辺でも砲弾が飛び交っていたため、幕僚が司令部内に安全な避弾所を作った。しかし立見はそこには入らず、煙草を燻らせ「ずいぶんと砲弾がやってくるな」と言いながら屋外で指揮をとり続けていた。


 戦後、 黒溝台会戦を回顧して次のような歌を作った。
 「黒鳩(クロパトキン)が 蜂(ハチと第八師団をかけている)にさされて 逃げ去れり 
                              もはや渾河(こんか=来んか)と けるかな」


 沈旦堡で敵の大軍を相手に孤軍奮闘していた豊辺大佐は「いよいよ困った時にはじいっと考えていれば、何か良案が出るものだよ」と常々語っていたという。