黄海海戦

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海戦の経過


 明治三十七年八月十日、本国からの勅命を受けた旅順艦隊はウラジオストックへ向けて出港した。敵艦隊出港の報を受けた東郷は連合艦隊に出撃を命令。両軍は黄海で遭遇し、第一合戦が始まった。











 午後三時二十分、両軍の距離は三万メートル以上になり、連合艦隊は旅順艦隊を見失った。しかし、旅順港停泊中に被弾したレトウィザンが浸水し、旅順艦隊は減速し始めた。そのため、午後五時三十分に連合艦隊が追いつき、第二合戦が始まることとなる。


 被弾した旗艦が回頭を始めて艦列に突っ込んだため、旅順艦隊は混乱して左転、右転を繰り返した。連合艦隊は敵を包囲しつつ攻撃を続行したが、午後八時頃に攻撃を中止して駆逐艦隊による夜襲に切り替えた。しかし、夜襲は不成功に終わり、ロシアの各艦は戦線を離脱して旅順港や中立港に逃げ込んでしまった。

 敵艦隊を撃滅することには失敗してしまったが、この海戦で得た様々な経験、教訓は後の日本海海戦で生かされることとなる。

海戦図


図をクリックすると「明治三十七八年海戦史」の付図を拡大表示します。

黄海海戦行動図 黄海海戦第一合戦図 黄海海戦第二合戦図


黄海海戦写真集

旅順艦隊を迎え撃つため出撃する連合艦隊



黄海海戦に於ける旅順艦隊の第一弾が連合艦隊近くの海面に着弾。



砲撃を行う敷島(写真左)。後続艦は富士、朝日、三笠。



海戦中に被弾した三笠の大檣。



旅順艦隊の旗艦ツエザレウィッチ。


逸話

 駆逐艦「東雲」の艦長吉田孟子は戦後の座談会で「その時の駆逐艦、水雷艇の働きというものは実に哀れ成績でした」と回顧した。黄海海戦後、更迭されなかった吉田は駆逐隊の戦術について研究し、それまでの単独行動、肉薄主義、一発一中主義を改める必要性を感じた。そこで、日本海海戦ではできるだけ集結し、魚雷発射も司令駆逐艦に合わせて同時に行うようにした。