碧梧桐の句評

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〜 病床六尺より 〜

 碧梧桐が「ホトトギス」に掲載した子規の句に対する批評と、それに対する子規の反論。



砂浜に足跡長き春日かな


碧梧桐

自分の足跡だか、人の足跡だかわからぬ。

子規

無論自分の足跡といふわけではなく、ただそこについて居る足跡を見たときの感じをいふたのである。




日一日同じ処に畑打つ


碧梧桐

自作者自身が畑打つ場合であるかわからぬ。

子規

余の考へは人の畑打を他から見た場合を詠んだつもりであったのぢゃけれど、作者自身が畑打つ場合と見られるかも知れん。




長き夜や人灯を取って庭を行く


碧梧桐

上五字を「夜寒さや」としては陳腐になるのであらうか。。

子規




余の考は夜寒のつもりではなかったのである。これは長い夜の単調を破った或る一事件をひっつかまへたので、詳しくいはば長い夜の何も変わった事はなく、ただ長い長いと思ふて居るときに、誰か知らぬが灯を持って庭先を横切った者があったといふ一事件があって、さてその後はまた何事もなく同じやうに長い長い夜であったのである。。




柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺


碧梧桐

「柿食ふて居れば鐘鳴る法隆寺」とは何故いはれなかったのであらう。。

子規

これは尤(もっとも)の説である。しかしかうなるとやや句法が弱くなるかと思ふ。




鳴きやめて飛ぶ時蝉の見ゆるなり


碧梧桐

趣味に乏しい。

子規

(もっとも)な説である。しかし余自身にはちょっと捨て難い処がある。