南方熊楠

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南方熊楠(1867〜1941)

 博物学者。和歌山中学校で軍艦マーチの作詞者でもある鳥山 啓に師事。後に共立学校、大学予備門に入学するが、発掘や標本採集ばかりしていて落第し中退した。その後はアメリカ、イギリスで粘菌(変形菌)の研究を行う。昭和4年、昭和天皇が行幸した際には、粘菌標本をキャラメル箱に入れて献上している。 

子規や真之との交友

 彼の随筆には、「東京大学予備門に在った時、柳屋つばめと云ふ人、所處の寄席で奥州仙臺節を唄ひ、予と同級生だった秋山眞之氏や、故正岡子規抔、夢中に成て稽古して居た」と書かれている。また、共立学校在学中に英語教師の高橋是清から、「ナンポウくん」と間違って呼ばれ、ついには「ランボウくん」とまで呼ばれて閉口したとも書かれている。


 明治44年3月12日、碧梧桐は知人と共に南方の家を訪れた。そしてビールを飲みながら話をしているとき、南方が共通の知人である子規の思い出を語りだした。
 「当時、正岡は煎餅党、僕はビール党だった。もっとも、書生でビールを飲むなどの贅沢を知っているものは少なかった。煎餅を囓っては、やれ詩を作る句を捻るのと言っていた。自然煎餅党とビール党の二派に分かれて、正岡と僕がおのおの一方の大将をしていた。今の海軍大佐の秋山真之などは、始めは正岡党だったが、後には僕党に降参して来たことなどもある。イヤ正岡は勉強家だった。そうして僕等とは違っておとなしい美少年だったよ。面白いというても何だが、今に記憶に存しておるのは、清水何とかという男が死んだ時だ、やはり君の国の男だ、正岡が葬式をしてやるというので僕も会葬したが、何処の寺だったか、引導を渡して貰ってから、葬式の費用が足らぬというので、坊主に葬式料をまけてくれと言ったことがあった」。