旅順要塞攻略戦@

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〜 旅順要塞包囲までの第三軍の動き 〜


日付 出来事
6月 6日 第三軍、塩大澳に上陸を開始
6月26日 第三軍、盤道西方台地〜剣山の線を確保する
7月28日 双台溝・老左山のロシア軍を撃破し、長嶺山・莫石嶺に進出。
7月30日 旅順の包囲を完了する。
8月 7日 大孤山、小孤山を占領。


戦闘の経過



 旅順攻略のために編成された第三軍は、明治三十七年六月に遼東半島への上陸し南進を始めた。その後、徐々に攻囲線を南下させ、七月下旬に旅順を完全包囲した。
 八月十四日に攻城砲陣地を確保した第三軍は、十九日に砲撃を開始。砲撃に続いて北西方面から第1師団が、東方面から第9師団、第11師団がそれぞれ進撃を開始した。八月二十一日、第1師団が大頂子山を奪取するが、東方面担当の第9師団、第11師団は苦戦を強いられ、盤龍山堡塁および東鶏冠山北堡塁の攻撃に失敗。翌二十二日には第9師団が盤龍山東西堡塁の奪取に成功するが、連隊の死傷者が全体の七割以上に達する大損害を受けた。一方、第11師団は二十三日に東鶏冠山方面の攻撃を中断して攻撃目標を望台方面に変更するが、攻略に失敗。死傷者の続出と弾薬不足により攻撃続行は困難となったため、、乃木は二十四日に第一次総攻撃の中止命令を下すこととなった。


日本軍の攻城砲陣地


ロシア軍の機関銃陣地内部


逸話

 開戦当初、日本陸軍は旅順方面への攻撃を重視していなかった。参謀次長であった児玉は参謀本部の部長会議に於いて、旅順背面に竹柵を作る事を提案。さらに竹や縄など所要の材料を既に計算させたとしてその数量まで述べたため、参加者一同哄笑した。


 『肉弾』の著者である櫻井忠温は第一次総攻撃の様子を次のように記している。

「 ・・・死傷者累々として此地隙に堆積し、彼方にも傷に唸(うめ)く者、此方にも担架を呼ぶ者、唯だ静かなるは已(すで)に絶命せる戦死者の骸(むくろ)なり。死屍地を塞(うず)めて予等の足を入るべく空隙無し。これぞ地獄の隧道(トンネル)。予等右に避くれば、傷つける同胞を踏み、左に地を求むれば、地には非ずして闇中に色を弁識する能はざるカーキ色の戦友の屍なり。「死骸を踏むな」と予は部下を戒めたが、予も亦(ま)た忽(たちま)ち水膨れになって護謨(ゴム)の如き弾力ある我死者の胸許を踏み付けた。「赦(ゆる)せ」之れを唯一つの念仏として行進したが、長き隘路に長く続ける死屍負傷者の事なれば、実際之れを越えずには、前進することが出来無かったのである。」

 文字通り屍を越えて突撃した櫻井中尉は8月24日の望台攻撃で重傷を負って敵囲中に取り残されたが、近くにいた兵士に救出されて生還した。
 


八月二十三、二十四日の第11師団の攻撃状況  〜 「明治卅七八年日露戦史」 第五巻 挿図第二十七 〜




 櫻井と同じ第11師団に所属し大隊長として前線で指揮を執っていた志岐守治は、戦後の座談会などではどちらかというと当時の軍司令部の作戦方針に批判的な意見を述べていることが多い。ただ、この第一次総攻撃に関しては次のように語っている。

「攻城砲による砲撃で敵の砲台に弾丸が爆裂し、そのたびに敵兵が一緒に跳ね飛ばされるのが見えた。我等第一線の者は皆頭を出して勇み立ってその光景を眺めたものだ。あのときは実際に我が砲弾で敵の堡塁が破壊された感じがした。」

「有名な東鶏冠山北堡塁は赤土の出来たての眼鏡堡としか見えなかった。前壕はこちらから見えず、鉄条網も大したものとは思われなかった。第一回の強襲攻撃は無論効を奏するものと思っていた。平時における参謀勤務の不十分であった。また、何人も砲撃の成果がどの程度のものなのかを理解していなかった。当時として第一回総攻撃に強襲を実施したの事は正当な決心であったと信じている。」