旅順要塞攻略戦A

坂の上の雲 > 軍事 > 旅順要塞攻略戦A


戦闘の経過


 第一次総攻撃に失敗した第三軍は攻撃方針を強襲から正攻法へ切り替え、各堡塁への坑道掘削作業を開始した。九月十九日、第9師団は龍眼北堡塁と水師営南堡塁への攻撃を行い、翌日にこれを占領。一方、第一師団は海軍からの要請に応じて十九日から二○三高地を攻撃したが、苦戦を強いられ二十三日に撤退した。
 この攻撃が行われる数日前に達子房身に二十八サンチ榴弾砲が到着。二十二日に準備が整い、三十日から敵陣地に対する砲撃を開始する。

 そして十月下旬、坑道掘削をほぼ終えた第三軍司令部は第二次総攻撃の実施を決定した。十月二十六日、攻城砲部隊による砲撃を開始。三十日から突撃を開始した歩兵部隊は一戸堡塁などいくつかの敵陣地を奪取した。一方、東鶏冠山北堡塁などの永久堡塁に対しては外壁の一部爆破には成功するが、攻撃は頓挫。各部隊で損害が続出したため、乃木は三十一日に攻撃中止命令を下した。



九月初旬から十一月下旬までの東鶏冠山北堡塁付近の坑道掘削状況  〜 「明治卅七八年日露戦史」 第六巻付図 第九  〜





坑道の掘削作業を行う第三軍の兵士


砲撃を行う海軍重砲隊



二十八サンチ榴弾砲による砲撃(1)


二十八サンチ榴弾砲による砲撃(2)



逸話

 9月1日、与謝野晶子が旅順包囲軍中の弟 籌三郎を案じる『君死にたまふことなかれ』の詩を「明星」に掲載した。 

「君死にたまふことなかれ」 
旅順口包囲軍のなかにある弟を嘆きて

ああをとうとよ、君を泣く、
君死にたまふことなかれ

・・・・(中略)・・・・
旅順の城はほろぶとも、
ほろびずとても何事ぞ、

・・・(以下省略)・・・

 籌三郎は戦死することなく無事に帰国し、第二次大戦後まで生き延びた。 ・・・・とここまでは有名な話。問題は彼が所属していた部隊である。籌三郎が所属していたのは出身地の大阪で編成された「第4師団歩兵第7旅団 歩兵第8連隊」。第4師団は第二軍に属して北上し、晶子が詩を書き始めた8月下旬には遼陽を攻撃中だったので旅順攻撃には参加していない。当時はどの部隊をどこの戦場に配備したかは軍事機密であったため、実際の配備とは違う情報が流されていた。そのため、与謝野晶子第4師団は旅順に送られたという情報を信じてこの詩を作ったのである。
 


 二○三高地攻略に関する将校らの見解。大本営幕僚の大澤界雄は戦後、次のように述べている。

 「二○三高地には九月中旬までは山腹に僅かな散兵壕があるだけで、敵はここに何の設備も設けなかった。だから九月二十二日の第一師団の攻撃でもう一息奮発すれば完全に占領できるはずだったのに、第三軍司令部がこの高地の真価を見出すことができず、第一師団より攻撃失敗の報告があったにもかかわらず、増援隊を送ることもなく、攻城砲兵に応射を命じることもなく、ついに好機を逃した。この攻撃における死傷者はロシア側が1221名に対して第一師団は水師営南方に向かった者を合わせて1824名に過ぎず、これは二○三高地の争奪戦は野戦的であったこと、むしろ敵に相当の損害を与えた一快戦であったことを雄弁に物語っているではないか。半殺しにした蛇は猛悪になりやすい。第一師団の不徹底な二○三高地攻撃は敵にその重要性を教えてしまった。 ・・・(中略)・・・ 大山元帥は『旅順要塞の死命を制し、我が艦隊をして旅循環隊に顧慮することなく動作せしむるの必要迫り来れるが故に、一層奮励し、成功を期すべし』という訓令を発せられた。この訓令の目的を達するためには二○三高地を占領し、ここに観測点を据え、旅順港内を掃射するより他に名案のないことは明白である」


 一方、第三軍参謀の井上幾太郎は次のように反論している。

 「海軍側の見地から見れば直ちに港内の敵艦を沈めバルチック艦隊来航に備えることが上策かもしれないが、二○三高地だけを占領しても要塞が陥落するわけではない。仮に二○三高地を占領しても、その後方にはまだ陣地がある。さらに松樹山、椅子山の攻撃をどうするのかを考えなければこれは愚案である。これは根本的に大本営または総司令部と第三軍との意見が異なるところである。さらに当時は第一次総攻撃の直後で、我が軍の第一線はすでに盤龍山方面に於いて敵の外壕に到達している状況であったので、再攻撃を欲するのは当然である」


九月二十一日〜二十二日の二○三高地攻撃状況  〜 「明治卅七八年日露戦史」 第六巻付図 第十三  〜
この時はまだ塹壕(赤太線)と鉄条網(網線ЖЖ)だけの簡易陣地だった。



 二十八サンチ榴弾砲が旅順に送られることになった経緯については、長岡外史の日誌では有坂成章が提言したと書かれている。この他、『機密日露戦史』ではこの長岡の日誌を紹介すると共に、

「その初め少佐由比光衛開戦前大いに二十八珊砲使用を主張したが、突飛なりとて一笑に附せられた」

と書かれている。また、田中国重は戦後の座談会で次のように語っている。

「二十八サンチ榴弾砲というものを使用したのは旅順が最初かと思いますが、これを案出したのは尾野大将(實信。当時満州軍参謀)であると思います。そうすれば尾野大将は功一級でなければならぬ方であったと思います。ところが悲しいかな、尾野さんは中佐であったために私と同じように功三級でブッ放されたのです・・・・」(一同笑)