旅順要塞攻略戦B

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戦闘の経過


 第一次総攻撃、第二次総攻撃で多くの死傷者を出した第三軍に対し、十一月十一日には第7師団が増援として投入された。十一月二十六日、第三軍は第三次総攻撃を開始。正面攻撃を行った各師団の攻撃はことごとく撃退され、さらに各師団からの選抜で特別編成した白襷隊による松樹山第四堡塁の奇襲も失敗した。 翌27日、乃木は攻撃目標を二○三高地に変更するが、第一師団が二○三高地攻撃に失敗。攻城砲部隊による砲撃の後、三十日の再攻撃で二○三高地の一角を占拠したが、ロシア軍の逆襲に遭い奪還されてしまった。

   一方、児玉は二十九日に満州軍総司令部を出発し、十二月一日に旅順へ到着。そして児玉は重砲、攻城砲の配置換え指示した。十二月五日昼、第三軍はついに二○三高地を占領。すぐに港内の軍艦に対する砲撃を行い、旅順艦隊の残存艦を次々と沈めていった。
 五日の二○三高地の陥落、さらに十五日のコンドラチェンコ少将の戦死は戦況に大きな影響を与えた。東鶏冠山北堡塁を始め、各地の堡塁が次々と陥落。明治三十八年一月二日、ついにロシア軍が降伏し、約190日に及んだ旅順攻略戦はその幕を閉じたのである。

       


出撃前の白襷隊



日露戦争当時の二○三高地



二○三高地から眺めた旅順港の光景



日露戦争から100年後の旅順港の光景。現在も軍港として使われている。



旅順陥落時の港内。日本軍の砲撃により多数の軍艦が大破着底している。



旅順港内で大破着底したパルラーダ(左)とポベータ(右)。
戦後、日本軍によって改修され、それぞれ「津軽」「周防」と命名された。



日本軍による東鶏冠山北堡塁の坑道爆破。



望台に突撃する一戸旅団。



東郷が旅順の第三軍司令部を訪れたときの記念写真。
前列右から四人目が乃木、その左が東郷、伊地知。
2列目右から四人目が真之、その左が飯田。3列目左から二人目が津野田。



復元された水師営の会見所。



水師営会見後の日露両軍将校の記念写真。
中列左からレイス、乃木、ステッセル、伊地知。前列右が津野田。



ステッセルより乃木に贈られた愛馬。

逸話

 第一次総攻撃後、志岐の部隊に前田隆礼少将が旅団長として赴任してきた。そして第二次総攻撃の少し前、志岐の案内で対壕を視察した前田は攻撃工事の進捗状況を見て「これなら攻撃も容易だろう」と語った。志岐は「敵も手強いので、第二次総攻撃の予定日までには予定通り攻撃準備を整えるべきです」と返答したのだが、その数日後に旅団に攻撃命令が下されたことを知った。この攻撃命令に不同意だった志岐が師団参謀に直訴したのだが、師団の幕僚達はこの命令を全く知らず、調査を行ったところ下痢のため後方で入院していた土屋光春師団長が前田と意気投合して無謀な旅団による単独攻撃の実施を決めたということが判明した。そこで志岐は幕僚らと相談し「砲弾が未着のため、師団が要求する砲撃には応じられない」と報告して師団長にこの無謀な計画を思い止まらせた。
 その後も前田は戊辰、西南、日清戦争における過去の経験に訴えて機関銃の威力を軽視し、攻撃に慎重な部下を罵倒することもあった。しかし、第三次総攻撃で自ら大隊を率いて盤龍山方面への突撃を試みたとき、目の前で突撃部隊がなぎ倒されるのを見て初めて機関銃の威力を知り、攻撃中止後に部下達に謝罪したという。
 志岐は戦後の口演で上記の例を紹介した後、次のように述べた。

兵器進歩著しき今日、将来戦を思うと将校たり、幕僚たるもの、その初戦に於いてまず第一に新兵器の威力を親しく視察することが緊要である。戦争の経験があって尚必要なことは前例の通りだ。況んや全く経験なきものに於ておやである


 白襷隊による松樹山堡塁夜襲の際、指揮官や副官が次々と倒れていく中で小出政吉少尉が先頭が立って突撃し、敵堡塁に飛び込んだ。小出少尉は大砲を盾にして日本刀を揮い、縦横無尽に奮闘したが、敵の増援部隊の中で孤立して遂に戦死した。水師営会見の際にステッセルは小出の軍刀を乃木に渡し、「あの将校は最先頭に立って勇敢な働きをし、我が軍も大きな損害を受けた。その行動は誠に感慨の他ない。これはおそらく伝家の宝刀であろうから、ぜひご遺族に渡して当時の壮烈な奮闘ぶりをお伝え願いたい」と語った。


 十二月半ば、日本軍の二十八センチ砲陣地に敵が発射した二十八センチ砲弾が飛来した。その弾底の砲片に「大阪」という文字が彫られていたため、攻城砲司令部の奈良武次は不発弾を撃ち返されたのではないかと考えたが、その時点では確かめるすべがなかった。
 旅順開城の際、要塞受領委員として豊島陽蔵と共にロシア引渡委員ベーリー長官の官邸を訪れた奈良は、日本軍の不発弾や信管が断面を切って展示されているのを目撃する。当時は機密扱いで日本軍の将校でも見ることの出来なかった伊集院信管まで展示されていたという。この時ベーリーは奈良に対して、「あなた方の二十八センチの不発弾は、ちょうど黄金山砲台にある我が軍の二十八センチ砲と合う。そこで、信管を直してそのまま使いました」と語った。


 前線で肉弾戦を目の当たりにした志岐は、戦後の座談会で次のように述べている。

昔から勇壮、悲壮の戦いにはよく屍を乗り越えて進むということがある。屍を乗り越えて進むということが非常に偉いことであるように考えるが、今日はそういうことは出来ない。昔は屍を乗り越えて進むという間は危険はない。敵にぶつかった後にはじめて接戦する。今日の戦争では屍を乗り越える間に自分は叩き伏せられる。だから、昔の戦争で屍を乗り越えて進むということはむずかしいことでない。今日においてはその意義があてはまらない。言葉はおなじことであるけれども、よほど状況が違うから区別してもらわないと第一線の者が困るのです。
 それからもう一つは、肉弾、肉弾ということを言うけれども、いかに肉弾とはいえ鋼鉄の弾丸にぶつかって倒れるのは当たり前だ。敵にぶつかって、敵と格闘してはじめて肉弾が働く。そこに接近するまでの間は肉弾は何も働かない。だから敵と接近するまでには何とかして敵に接近できるようにしてくれなければならない。つまり側面や背後から銃砲弾で敵を押さえつけて、体当たりするまでにしてくれなければ肉弾の値打ちがない。肉弾が銃砲弾の代わりをすると思ったら間違いである。