沙河会戦

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戦闘の経過

 明治三十七年九月、ロシア軍は遼陽から奉天へ後退したが、日本軍に追撃する余力がない事を知ると沙河方面まで南下を始めた。クロパトキンは新たに第二軍司令官に任命されたグリッペンベルグが着任する前に戦果を得ようとし、十月二日に突出していた日本軍右翼への攻撃を命じた。


 このロシア軍の南下行動は、間謀によって四日に第一軍に伝えられた。ロシア軍の動きを察知した日本軍右翼の梅沢旅団は七日に本渓湖へ後退したが、翌日からシタケリベルグ軍団とレンネンカンプ支隊の猛攻を受けて苦戦。黒木は第十二師団に梅沢旅団の救援を命じ、さらに九日には騎兵第二旅団にも本渓湖への転進を命じた。
 一方、この知らせを受けて作戦会議を開いていた児玉は九日、第二軍、第四軍に対して進撃を命じる。右翼の第一軍を軸に、左翼から第二軍、第四軍で敵軍を包囲するという作戦であった。

  攻撃命令を受けた第二軍、第四軍は十日から前進を開始。十二日には第二軍が前浪子街の敵軍を撃破し、第四軍も夜襲で三塊石山の敵を潰走させる。一方、苦戦していた右翼の第一軍も、 敵側面に回り込んだ騎兵第二旅団の機関銃攻撃で敵を潰走させ機器を脱した。翌十三日、仁平大隊が陽城秦の敵陣地に白兵突撃を行い、山頂を占領。自軍が押され気味であることを知ったクロパトキンは、退却を決意する。


 十四日、四里台子で戦況を視察した大山は全軍に戦線の整頓を指示した。ロシア軍の猛攻は一時的に収まっていたが、十四日には沙河堡北方まで進出した第三師団の高島大隊がロシア軍の猛攻撃を受け、さらに十六日には山田支隊が万宝山で敵軍の攻撃を受けて壊走した。しかし、ロシア軍の反撃もここまでで十八日には沙河の線から後退して陣地構築を開始する。日本軍も二十日から陣地を強化し、日露両軍は沙河を挟んで三ヶ月ほど対陣することとなる。




第四軍司令部。中央右から3人目が野津、4人目が上原



匍匐(ほふく)前進で進む歩兵第45連隊の兵士



大英守屯北方高地から砲撃を行う第一軍独立野戦砲兵



沙河会戦後に防御陣地の構築を行う日本兵



逸話

 第四軍が三塊石山への夜襲攻撃を行った時、じっとしていられなかった野津は幕僚数名を従えて第十師団司令部へ視察に出かけた。この少し前に司令部に落ちた砲弾で馬や副官が負傷したので師団長の川村はやや不機嫌だったのだが、野津が到着すると敬礼して状況を報告した。その後、川村は「参謀長!誰が軍司令官をこんな所にご案内したんだ。軍司令官というものはこんなところに来るものではない」と上原を叱り、「ここは川村がおりますから大丈夫です。軍司令官はなにとぞ早くお帰り下さい」と野津を諭した。さすがの上原も「司令官、もう帰りましょう」と言って、野津と共におとなしく軍司令部へ帰っていった。


 翌朝、野津は参謀の町田に戦線の視察を命じた。町田が第十師団司令部に到着すると、川村は彼に捕虜の尋問を依頼した。しばらくして左腕を負傷したロシア軍の連隊長が引っぱり出されてきたのだが、彼は町田を見るなり突然叫び声をあげた。「おぉ、町田!」 「おぉ、クリンゲンベルヒ君か!」。なんと、その捕虜は町田がロシア滞在中に知り合った友人だった。クリンゲンベルヒはさらに「ところで町田、義一ノヴスケウイッチはどうした?」と尋ねた。彼は田中義一とも親しく、ロシアに滞在していた日本の軍人は田中義一は『ノヴスケウイッチ』、広瀬武夫は『タランチウイッチ』というように呼びやすいあだ名を付けられていたという。このあと、クリンゲンベルヒが町田に窮状を訴えると、近くで話を聞いていた川村が同情し、「武士の情けだ。これを飲ませてやれ」とブランデーの入った水筒を手渡した。


 数日後、田中は司令部で捕虜名簿閲覧中にクリンゲンベルヒの名を見付けた。彼はロシア滞在中、クリンゲンベルヒに「日露両国の平和は早晩破れそうだ。その時は君と僕は兇器を取って戦場で相見えることになるだろうが、もし二人のうちどちらかが傷ついて捕われるようなことになったら、互いに一杯の火酒を贈って、最後の友情を温めようではないか」と言ったことを思い出し、持ち合わせのワイン二本を携えて捕虜収容所へ面会に向かった。「クリンゲンベルヒ君、とうとうあの時の約束を実行することになった」そう言って田中がワインを渡すと、クリンゲンベルヒは田中の顔を見ながら涙を流し、その再会を喜んだという。