真之と子規

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下宿にて

 明治十七〜十八年頃、真之と子規は神田猿楽町の下宿に同居していた。この当時のことを柳原極堂は次のように語っている。

『秋山は随分乱暴であった。気に食わぬ芸人が高座にあらわれると「ダメダメ、退却々々」などと叫びはじめる。そのうち我々の持っている下足札を集めてカチカチガタガタと妨害をする。・・・(中略)・・・ こんなことは秋山が板垣に来るまでなかった事である。』


 また、戦前の伝記「秋山真之」には柳原が二人の下宿を訪れたときのエピソードが紹介されている。

 ある朝、二人の下宿を訪ねた。丁度飯を食っている時だった。女中が給仕をやっていた。その時どちらが言いだしたのだったかそれは失念したが、お汁のお代わりを請求した。すると女中が「お汁は一杯限りです」と言って応じなかった。
「もう鍋にはないのか」
「ある事はあります」
「あるなら出せ」
「あっても、おかみさんがじっとにらんでるから駄目です」
そんな押し問答を頻りにやっていたが、何うしても女中を動かす事が出来なかった。
「そんなら僕ら二人が、毎朝お前に英語を一つ宛教えてやるが、その代わりお汁を誤魔化して持ってこい。それなら宜しいだろう」
「さあ」
と女中はちょっと考えていたが、漸っとこの交換条件で妥協が成立した。
「とにかく下へ行ってみましょう」
というので下りていったが、間もなく温か湯気の立ったお汁の代わりを持ってきて、
「おかみさんがちょっとわきみをしている間にごまかして来たんですよ」
と弁解を付け加えた。その時二人が女中に教えた英語というのが
「アイ・サンキュウ・ベリーマッチ」だった。


※子規全集では、教えた英語は「グッド・モーニング」だったと書かれている。

弥次喜多

 「筆まかせ」では江ノ島への無銭旅行中に真之が尻餅をついて「かしこまった」と書かれているが、実際は子規の方が先に「かしこまった」らしい。このことについては後に柳原極堂が語っている。
 明治18年の夏休みに、柳原は同郷の友人数名と共に鎌倉への無銭旅行を試みた。彼が苦労したことを隠し、その時のことを面白おかしく語ったので、真之が「今から行こう」と躍りあがって言い出したという。そして出かけてみたところ、体格では真之に劣る子規のほうが先に参ってしまったのだが、この一件を面白く読ませるために真之が先に「かしこまった」と書いたとのことであった。
 しかし、真之が音を上げたのも事実である。子規は、真之が最後に「最善の努力を尽くしたんだから、もう引き返しても柳原に笑われまい」と言うので引き返すことになったと言い、さらに「あの時の秋山の顔は実に悲痛なものがあったよ。しかし最善の努力は尽くしたんじゃけんねや、秋山・・・」と真之をからかっていたという。


藤野磯子(古白の義母)の思い出話

 秋山さんと升さんは一番仲が善かった。そしてよくお互い褒めあっていました。升さんが「アレはいずれ海軍大臣になりますよ」というと、秋山さんはまた「正岡文部大臣の時が来るさ」と言ったりして、未来の大臣を夢見ていたようでした。

ある日、松山で

 日清戦争直前、従軍前の二人は偶然松山で出会った。子規は大原の家へ行くところであり、真之は墓参りの後に兄の岡正矣の家へ行くところであった。「あとで一緒に道後温泉に行こう」、二人はそう約束した。
 「そういえば、伊佐庭のおいさんが温泉を貴族式にするそうな。これには不賛成じゃ。平民主義でなければいかんぞな」
 子規の説に真之も同意しながら、二人は大街道を歩いて行った。

松山の三才子

 明治18年頃、上京していた松山出身の青年たちが仲間の中から「三才子」を選出する投票を行った。その結果については、明治35年に柳原極堂が子規追憶談の中で「その選に当たったのは即ち子規君と秋山真之氏(現海軍大尉)とモ一人は誰であったか忘却した」と述べている。さらに続けて子規については「子規君は決して普通に所謂才子なるものでは無い。幼少の時からソンナ質の人ではなかったからその点は念のために申し添えておく」とも書かれている。


明治23年の新年会

 明治23年1月、松山に帰省していた子規は、真之、柳原極堂らを誘って三津で新年会を行った。この時の様子を、 『筆まかせ』の「明治二十三年初春の祝猿」に次のように書き残している。

 明治二十三年一月、余が郷里伊予松山に帰省して病を養いたりし頃、丁度在阪の旧友太田正躬氏も帰省しいたりしかば、共に相談して五日の午後、三津の生簀(いけす)に飲まんとて、太田、柳原正之、藤野潔の三氏と共に秋山氏をさそう。同氏あらず。すなわち下婢にそのむねをいい残して同家を出づ。(中略)
 三津口停車場に至りて汽車を待つ間秋山氏も来られしかば、同車にて三津へと出で立ちぬ。今日は余等も紳士の仲間入りなれば、勿論中等の切符を買いたるはいうまでもなし。秋山は後から来て、殊に気がきかぬ故、下等切符を買う。乗車の時に際し、余は秋山に目くばせし、「君は気がきかぬよ、今日は我々も紳士だよ。下等切符とはお気がつかれたなァ」と、口には得こそいえばえに、腹の中の苦しみを目まぜ顔つきのこなしにて、團州よろしくという身ぶりしければ、秋山もそうかといった様な顔をして直様切符を隠し、何が扨ぬかりはせぬという顔にかえて、中等列車へと乗り組みぬ。
(中略)
 かくて酒は一めぐり二めぐりすると始った始まった、悪口でかためた。
(中略)終いには秋山までが管を巻き出し「柳原、お前は才子だ」と公言すること五度に及べり。余傍らから「松山才子の相場も大概決まったなァ」、秋山「太田に忠告することがある。妻をとるとも大阪の女は取ってくれるな、それより松山の女をとれェよ」(中略)こんどは余に向かい、秋山「正岡にいうが、お前学校を卒業しても教師にはなるなよ、教師ほどつまらぬものはないぞい、しかしこうやってお前がいきておるのは不思議だ」などと独り面白がりてしゃべりちらす。


 参加者の一人である柳原も、後に著書『友人子規』の中で「後には日本海海戦の名参謀としてその名を天下に轟かした秋山も、この日は相当酔っぱらって、管を巻いた事を記憶している」と回顧している。