悟りとは?


 

 子規がまだ大学予備門の学生で常磐会寄宿舎に住んでいた頃、友人に「君は仏教のいわゆる悟りについて、どんな意見を持っているんだ」と尋ねられたときに「悟りとは智識の上に関係するものにあらずして意識の上に関するものなり。我々の煩悩即ち我々の慾心その外、我の恐るべからずして恐れ、悲しむべからずして悲しみ、喜ぶべからずして喜ぶが如き。その理は知りながらこれを実行する能はざるもの多し。而してもし悟りを開く時は、これらの煩悩一時に去りて、身に一点の汚れなく恐れなきこと、暗夜一転して白昼となるが如きものならんと思はるるなり。」などと述べている。

 この数ヶ月後に、子規は帰郷する前に内藤鳴雪を訪ねた。そこで世事の話となった時に内藤は、「物の局内に在っては何も分からず、その局外に在ってこそ局内の形勢も知ることが出来る。世の俗事に奔走し、世間の他は何も知らない者が世間を論ずるのは笑止千万。世間の事を論ずるには、例えばこの世を去ろうとする病人のようになるべく世間を遠く離れ、世間を局外から見ることが出来る者でなければならない。君は昨年の病気で益々人間から遠ざかったから、悟りを開くことも一層深くなったでしょう。」と語った。さらに、「少しは老衰せねば世間のことは分からない。少年の時は血の気が多いからいけない。だから少年は血気にはやることが多く、血迷ってのぼせ上がることも多い。私は四十歳になって大いに血が減り、精神も定まったように思える。しかし世の中には例外もあり、例えばビスマルクは相当血の気が多いと見えて、七十を過ぎてもなおピンピンと跳ね回るのは笑止千万のことです。君は昨年、吐血して血の量も減ったから悟りの域に近づいたはずです」。これを聞いた子規、「余は抱腹絶倒、実に先生の諧謔の巧妙なるに驚き、一夜の閑話、百日の法談にまさりぬとて辞し去りぬ」。

 それから十数年間、病と闘いながら過ごした子規は、死の三ヶ月前に「病牀六尺」に次のように記している。

 余は今まで禅宗の悟りといふ事を誤解して居た。悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思つて居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた。