第1篇 第1章


 

◎戦争とは

 戦争という問題を研究するとき、その対象は戦争を構成している単純な「個々の要素」から、これらが関連する「全体としての戦争」へと進む。この際、まずは全体としての戦争の本質を明らかにし、常に全体を考えながら部分的考察をおこなう必要がある。

 戦争を構成している究極の要素は「二人の間で行われる決闘」であり、戦争は拡大された決闘ということになる。そして、戦争は一種の強制行為であり、その目的は相手の抵抗力を完全に無力化し、自らの意志を強要することである

※真之の「戦争不滅論」⇒『茲に二人の人ありて其間に一個の林檎あり之を喰わざれば生存する能わざる場合には忽ち茲に爭闘を起こし、其一人他の一人を殺倒若は屈服せしめ、果物を取って自己一人の食となさゞる可ざるに至る。・・・而して此等の爭闘は單一なる個人のみにあらずして漸次に擴張して團體の爭闘となり、或は家と家、或は族と族、或は郷と郷となり、叉州となり國となり・・・』



 人道主義者は「戦術の本旨は敵に過大な損害を与えることなく、協定によって相手を降伏させるだけでよい」と主張するが、戦争のような危険な現象にこのような良心をもちこんではならない。流血を厭わない者が相手である場合、敵が優位を占め、その意志を強要されることになってしまう。つまり、戦争の粗野な要素を嫌悪するあまり戦争そのものの本性を無視しようとするのは無益で本末を誤った考えである。戦争はこのようなものとして見なければならない。

※真之の「戦争不滅論」⇒『戰爭を嫌悪して人爲的に之を絶無ならしめんとして却て之に倍する惨害に陥るべきを覚えざる徒と、又彼の必要以外濫りに腕力を労してその贏ち得たる處失う處を償はざるが如きものとは共に憐むべき愚者の見なり』

 

☆戦争論の要点@:戦争の本質を考察し、明らかにする。




◎交互作用と極度

強制行使による交互作用

 戦争は一種の強制行為であり、限界が存在しない。よって交戦者双方が自己の意志を相手に強要することによって彼我の間に交互作用が生じ、互いの強制行使は次第にエスカレートして理論的には極度に達することになる。これが戦争における第一の交互作用であり、また我々の経験する第一の極度である。

※(例)テロと報復攻撃の応酬 → 暴力手段のエスカレート


戦争の目的は敵の無力化である

 敵に我が方の意志を強要する場合、実際に敵の防御を完全に無力にするか、そうでなければ確実に無防御になる恐れがあると思わせることが大切である。将帥の陥る最悪の状態はこの完全な無防御の状態である。この軍事的行動の究極の目標「敵の無力化」は、彼我双方について考えられねばならない。ここでまた交互作用が生じる。つまり我々が敵を完全に打倒しない限り、我々が敵に打倒されることを恐れねばならない。これが第二の交互作用であり、この作用は第二の極度に達するのである。

☆戦争論の要点A:敵の無力化→モルトケに誤解され、ドイツ軍部で受け継がれた「殲滅戦」理論。


彼我双方の力の極度の使用

 敵を完全に打倒しようとするならば、我が方の力の使用を敵の抵抗力と比較しなければならない。そして敵の戦力が解れば、こちらも戦力の増大が出来る。しかしこれは相手も同じ事をするので、彼我双方競い合うことになる。そして力の使用は極度に達せざるを得なくなる。これが第三の交互作用であり、我々が経験する第三の極度である。

※(例)米ソの軍拡競争 → 核兵器の増強へエスカレート



◎現実による手直し

 抽象論の世界においては、上述のように彼我双方がいずれも相手に対して同じ事(強制行使、敵の無力化、戦力の極度使用)をするならば、それはエスカレートして極度に達することになる。もしこれを制限するものがあるとすれば、それは戦争に内在して、絶対的な力の使用を阻止するような諸種の対抗物である。現実の世界では、次のようなことが言える。

※(例)米ソの軍拡競争 → 核兵器の増強 → 軍事費の増大(戦争に内在する要素) → 核軍縮へ


戦争は独立した行動ではない

 戦争はそれ以前の事態と全く関わりなく突如起こるものではない。だから、彼我双方はいずれも相手の状況と行動から、相手の動静の大半を判断しなければならない。

※様々な政治状況(内政、外交、経済、民族、宗教など)⇒ 戦争の勃発

 しかし、人間はもともと不完全なので、双方に完璧な状況判断はできないという欠陥が生まれる。これらの欠陥が絶対的なものを緩和する原理になる。


戦争は継続のないただ一回の決戦から成るのではない

 もし戦争における決戦がただ一回の決戦から成るとすれば、この機会を逃さないためにすべての準備を極度まで押し進めようとするだろう。しかし、決戦が一回限りでなく、その次もあるということになると、人間の精神は一回の決戦に全戦力を投入する危険を慮って、次回の決戦に備えて戦力を温存するものである。つまり、極度に達しようとする努力を抑制して、力の使用を一定の限度に留めることになる。

 また、戦争に使用される力が全て同時に働きだすものでもない。戦争に用いられる力とは1.本来の戦闘力、2.面積と人口とを有する国土、3.同盟諸国である。 このうち兵力や資材などの可動的な戦闘力はその全てを同時に働かせることができるが、要塞・河川・住民など国土全体を同時に働かせることはできない。同盟諸国の動向も、戦争当事者の意思によって左右されるものではない。


戦争とそれから生じる結果とはいずれも絶対的なものではない

 戦争中に行われた決戦の勝敗も絶対的なものとは言えない。敗者がこの不利な決戦を一時的なものと判断し、その対策を戦後の政治的打算に求めることができるからである。このように戦争から生じる結果を考慮することも、緊張などを緩和することになる。

※(例)真珠湾攻撃: 戦術的勝利(敵艦撃破) ≠ 政治的勝利(敵国の士気低下) 


「確からしさの法則」

 以上の3つの条件によって戦争は極度に達する恐れはなく、同時に極度を追求する必要もなくなる。そうなると今度は力の極度の使用ではなく、力の使用の限度を確認することが彼我双方の判断の対象となる。 この限度による判断というのは、現実の様々な状況が我々に提示する既知の情報だけに基づき『確からしさの法則』によって行われる。こうして彼我双方が『確からしさの法則』に従って相手の行動を推定し、自らの行動を決定するのである。


☆戦争論の要点B:「絶対的戦争」と「現実の戦争」。



◎政治的目的の出現

 ここで新たに考察の対象になるのは、戦争の政治的目的である。これまでの考察では、戦争では力を極度に使用せねばならないという法則(敵を無力化するという意図)が戦争の政治的目的を押しのけていた。

 政治的目的は戦争の本来の原因として、またその結果にも極めて重要な影響を与える要因でなければならない。戦争の本来の動機としての政治的目的は、軍事的行動によって達成されねばならぬ目標を設定するための尺度であるばかりでなく、戦争における力の使用を規定するための尺度にもなり得る。ここで論じているのは概念ではなく現実の事態である。

 ところで同一の目的であっても、違なる国民においては極めて違なる結果を生むことがある。時には同一の国民においてすら、このようなことが起こりうる。戦争に際して民衆の心を動かすものはこの政治的目的である。だから政治的目的を尺度として認めるのは、政治的目的が大衆の及ぼす影響に関連する場合である。 軍事的行動を強化または弱化させる原理が民衆のうちに見いだされるか否かによって、政治的目的による結果もまた著しく異なるのは言うまでもない。

 上述のことは両交戦国の政治的目的が規定する力の使用についても言えるし、またこの政治的目的が軍事的行動に対して設定する目標についても言える。敵国のある地域を攻略する場合は、政治的目的がそのまま軍事行動の目標ということになる。また、時には政治的目的を軍事的行動に対して設定し得ないこともあるだろう。その場合の目標は政治的目的と同等の価値を有するようなものでなければならない。もちろんこの場合も両交戦国家の特異性に注意を払うことが必要である。更に政治的目的におきかえた目標で戦争を遂行する場合、この目標が当初の政治的目的より遙かに大でなければならない。


※ 大衆の影響 ⇔ 政治的目的 ≒ 軍事的目標 ≒ 使用する力



◎軍事的行動の停止状態

 彼我双方の政治的動機や使用する手段、軍事的行動に対して設定する目標などが如何に小さいにしても、この軍事的行動自体は一瞬たりとも休止しうるのであろうか。これは戦争の本質に迫る深刻な問題である。 ここで問題にしているのは一方の側における停止ではなくて、双方の軍事的行動の全面的停止のことである。


軍事的活動を停止し得る理由

 彼我双方が共に戦争の準備を進めているとしたら、何か敵対的な要因があってそうさせたのであろう。そして双方が戦争の準備を整えたままでいる限り、言い換えれば講和を締結しない限り、この状態は存続することになる。もしこの状態が中断されるとしたら、それは双方のいずれかが「有利に軍事的行動を起こすことのできる時期を待ち受ける」という条件に従う場合である。この条件は常に一方の側にあり得るように思われる。一方にこの様な条件があれば相手側はこの反対になるからである。つまり一方が行動に関心を持てば、他方は自ずから待ち受けに関心を持たざるを得ないわけである。

 たとえ彼我双方の間に完全な均衡が保たれていたとしても、軍事的行動の停止は生じ得ない。この均衡状態においても、やはり積極的目的を有する攻撃者が常に敵に対して行動を起こすだろう。しかし、次のような状況を考えることもできる。一方の側が積極的な動機と目的を持つが、しかし使用できる軍事力は相手よりも劣弱である。すると他方はこれの逆になるから、それぞれの動因と力を掛けた積は結局相等しくなる。この様な均衡状況に変化が生じないとすれば、双方は講和を結ぶしかない。

※(例)日露戦争:日本陸軍→攻撃の意図はあるが、それに必要な兵力が不足
         ロシア軍→兵力は優勢だが、クロパトキンは攻撃に消極的  ⇒ 沙河での冬季対陣(停止状態)


 また、両交戦国家のうち一方の積極的目的(例えばある地域の攻略、占領)が成功すればその政治的目的は一応達成される。他方もその結果を甘受するのであれば講和が締結されて停止状態が生じるが、そうでなければ軍事行動がさらに延期されることになる。そこで、目的達成の瞬間から戦勝者は戦敗者に再起の時間を与えないために行動の準備を整えねばならない。尚この場合には双方が現在の事態を熟知していることは言うまでもない。


軍事的行動の連続性と極度

 軍事的行動の連続性というものが実際に存在するとしたら、この連続性によって双方の感情は掻き立てられ、戦争は激化し、軍事行動はまたしても極度に達するだろう。しかし軍事的行動が連続性を持つことは極めて稀である。戦争を通じて軍事的行動自体の占める時間は極めて少なく、他の時間は全て停止状態にあるという戦争も数多くある。軍事的行動に停止状態が生じることは否定できず、それは決して戦争の本性に矛盾するものではない。何故そうなるのかを次から述べていく。



◎攻撃と防御

 一般に防御は攻撃よりも強力であり、軍事的行動に停止状態の生じる理由もこれによってよく説明される。一方が現状を有利と見ながらも、敢えて防御の有利を捨てて攻撃するほど優勢でなければ、すぐ攻撃したり講和を結ぶよりは、例え不利な将来が待っているとしても防御という戦争形式で戦っている方が優っていると考えるだろう。正しい意味の防御は攻撃よりも著しく強力である。それだから戦争において停止の時期がよく現れ、それが時間的に極めて大きな部分を占める理由はこういう事情によってよく説明される。また、軍事的行動の動因が薄弱になるにつれていよいよ頻繁に中断されることになる。経験もこのことを証明している。

※(例)旅順攻防戦:強力な防御 → 攻撃の頓挫、陸海軍共に戦況が膠着状態になる
    大阪冬の陣:野戦で勝てるほど優勢ではない → 援軍の見込みがない不利を承知で籠城

☆戦争論の要点C:防御>攻撃




◎戦争は博打である

軍事的行動を停止させる第2の理由:不完全な状況判断

 しかしそのほかにも軍事的行動を停止せしめる理由がある。それは不完全な状況判断である。将帥が正確に把握できるのは自軍の状況だけであって、敵情は不完全な情報によって知るしかなく、敵情判断を誤ることがある。軍事的行動が緩慢になり、それが頻繁に停止されてその停止期間が長引くと、その間に将帥は敵情判断の誤りを繰り返すことになる。将帥は敵を過大視する傾向があるので、不完全な敵情判断は一般に軍事的行動を抑止し、極度の原理は緩和され、戦争はその絶対形態から遠ざかることになる。そして、確からしさの計算を必要とする。

※(例)クロパトキン:敵情の誤認、過大評価 → 攻撃の消極化、軍事行動の停滞



戦争を博打たらしめる条件→偶然

 戦争はその客観的性質から言って確からしさの計算であることは上で述べたので明らかである。戦争が一種の博打であるためにはただ一個の要素が加わればよい。そしてそれは本来戦争には付き物である偶然という要素である。およそ人間の営みのうちで戦争ほど偶然と隣り合わせなものはない。そしてこの偶然に伴うものは不確かさであり、更にまたこの不確かさに伴うものは思いがけない幸運である。そして戦争ではこれらの要素が広大な範囲を占める。

※(例)黄海海戦:旗艦ツェザレウィッチの被弾 → 偶然と思いがけない幸運

※『軍事学とは、あらゆるチャンスを計算し、次に偶然というものを正確に考慮することである。』
 『「偶然」は、凡庸な者にとっては「神秘」でしかないが、優れた人にとっては「現実」となる』byナポレオン



戦争は主観的性質からも博打とみなされる

 戦争は主観的性質、即ち戦争指導を担当する将帥の心理面を考察すれば、ますます博打と見なされざるを得ない。軍事的行動の行われる場は「危険」である。その危険に際してその中でもっとも卓越した働きを示す力は「勇気」である。そして、この心的要素は不確かさにつながる。不確かさこそ、心的要素の働く本来の場だからである


このことは一般に人間の精神によく合致する

 人間は確実と明晰とを好むが、時として不確実なものを好む。無限の可能性を持つ不確実なものによって勇気が高揚することもある。敢為と危険こそが、勇気あるものが進む道の本領である。理論はただの計算だけでなく、人間的なものも考慮に入れなければいけない。戦争術はそういった内容も含まねばならない。よって、戦争術が絶対的なもの、確実なものに達することはなく、不確実なものが存在する余地がある。

 この不確実の間隙を勇気と自信とで埋めなければならない。勇気と自信は戦争の本質的な原理であり、軍人の持つべき高貴な徳である。従って戦争理論の本旨は、この二つの徳を自由に発揚させるようにせねばならない。敢為も賢明を兼ね備え、慎重を除外するものではない。ただ、敢為はの二つの徳とは別の基準で評価されるものである。

☆戦争論の要点D:戦争における将帥の精神的要素の重視。




◎戦争の詳細な規定

 ここまで述べたものが戦争であり、また戦争指導に当たる将帥であり、更にまた戦争を学問的に整頓した理論である。しかし、偶然や様々な感情の高揚は結局戦争の特性に過ぎない。戦争は厳粛な目的の達成のための厳粛な手段である

 双方のいずれも全国民が参加する共同体における戦争は、常に政治的状態から発生し、政治的動因によって進行する。よって、戦争は政治的行為である。仮に戦争が外部から影響を全く受けない絶対的なものだとしたら、戦争はその勃発と共に政治を押しのけ、自分自身の法則以外のものには従おうとしないだろう。しかし、このような考えは根本的に誤っている。

 戦争が政治的目的から発生したのであれば、その目的に最高の顧慮を払うのは言うまでもない。しかし、政治目的は決して立法的な専制者ではない。政治的目的はその手段である戦争の性質に適合せねばならないし、また戦争によって目的の変更を強いられることもあり得る。とは言え、政治目的は第一に考慮されねばならないことは先程述べたとおりである。つまり政治は軍事的行動全般に作用し、戦争に使用される諸力が許す限りは戦争に影響を及ぼすものである

※政治と戦争の関係が上手く働いた好例として日露戦争がよく挙げられるが、メッケルの教育は戦術中心で、この「政治と戦争の関係」は軽視されていた。このことが後の「統帥権の独立」につながっていったと言われている。


戦争は政治とは異なる手段をもってする政治の延長である

 戦争は政治的行為であるばかりでなく、外交であり、彼我双方の政治交渉の延長であり、政治とは異なる手段を用いた政治交渉の遂行である。ということは、戦争に独自の形があるとすれば、それは戦争で用いられる手段の独自の性質の違いだけである。

☆戦争論の要点E:戦争を政治の中に組み入れ、「政治の手段」とした。


 戦術面に関して将帥が要求しても差し支えないのは「政治の方向と意図が、その手段と矛盾しない」ということだけである。しかし、この要求が強く反映されるとしても、政治的意図を変更するものであってはならない政治的意図が常に目的であり、戦争はその手段にすぎない。目的なしの手段は考えられないということは言うまでもない。

※ドイツ軍部の誤解:『戦争は政治とは異なる手段をもってする政治の延長である』は「戦争においては政治的要素が軍事的要素よりも重要である」ことを意味するのだが、「軍事的成果のみによって政治的問題を解決できる」と誤解された。



◎二種類の戦争

 戦争の動因が大規模になり、絶対的形態に接近し、敵の完全な打倒がますます重要なものとなれば、その政治性を失却するかのように思われる。 逆に戦争の動因が微弱なものになれば、戦争はその政治性を濃厚にするかのように見える。前者の戦争では政治が消滅したかに見え、後者の戦争では政治が表面に打ち出されている。しかしこのどちらも政治的行動である。

※以上が本文に書かれている部分。これとは別に書かれた著者の方針書では、以下のような「二種類の戦争」が示されている。

 第一は敵の完全な打倒を目的とする戦争である。ここで、敵国を政治的に抹殺するのか、単に講和に応ぜざるを得ない無抵抗状態にするのかは問題ではない。

 第二は敵国の国境付近において敵国土の一部を略取しようとする戦争である。ここで、その地域を永久に領有するのか、それとも講和の際の交渉材料にするのかは問題ではない。

 これら二種類の戦争の間には様々な中間段階がある。しかし、両者は追求する目的の性質が全く異なるものであるということは、どのような場合でも徹底していなければならないし、また両者の相容れない性質をはっきりと分離せねばならない。



◎全般的な考察

 戦争はカメレオンのように、具体的な場合ごとにその性質を多少変える。しかし戦争という現象を全般的に考察すると、

1、ほとんど盲目的な自然的本能と言えるほどの憎悪と敵意を伴う暴力行為
2、偶然と確からしさとを伴う博打であり、自由な心的活動
3、政治の道具であるという従属的性質を帯びる知性活動

 1は国民に、2は将帥とその軍に、3は政府に帰する。 戦争理論はこれらの三傾向のいずれにも偏ってはいけない