清水則遠

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清水則遠(1868〜1886)

 七変人の一人。「坂の上の雲」では実名での登場はないが、江ノ島無銭旅行の同行者の一人である。松山中学では子規の一年後輩だったが、大学予備門では子規が落第したために2人は同級生となった。 

清水の人柄

◇ 『筆まかせ』の「清水則遠」より。

「名は実を現はすとかや、則遠氏は淡泊なること実に清水の如しともいふべし。黙々として言はず、莞爾として微笑す、独り行き独り止まる。然れども変人にあらざるなり、又詩人を気取り雅流を好む癖もあらざるなり、さればとて名利に汲々たるの俗気もなし。実に通中の俗、俗中の通、余は君を推して聖人といはんとす。聖人なる語、不適当ならば真人といはんと欲するなり。けだし君元来生を喜ばず死を恐れず。」

「君は書物でも判紙でも何でも彼でも手あたり次第、いたづら書きをする癖あり。余等驚きて時々不敬を怒れども 君莞爾として意に介せざるものの如し。いたづら書きなほもとのごとし。此の如く総ての事において余は君にまけたり。故に君と共に居れば怒り甲斐もなく、従て気も長くなるに至る、これ余がことさらに君と同寓を願ひし所以
(ゆえん)なり」


◇明治38年のホトトギスに掲載された高浜虚子『正岡子規と秋山参謀』より。

「子規君の口にかかると大概のものは小供のようになってしまうが、その中で敬重されたものは真之君と、もう一人清水則遠という人であった。この人は後にかかげる「七変人評論」中の記事を見ても略わかるが、ぼうッとした牛のような人であったらしい。一体がちょこちょこした重みの無い松山人のうちで、この清水という人などはたしかに異彩であったに違い無い。惜しい事に脚気衝進心で早く亡くなられたという事ぢや。余は古く子規君と一緒に谷中に在るその墓に詣った事を記憶して居る」

掃除嫌いな子規と清水

 明治17年、常磐会給費生として上京した清水は、子規が下宿していた藤野宅で同居することとなった。当時の2人の様子を藤野磯子(古白の義母)は次のように語っている。

「大の男が二人も居たって、宅のことは横のものを縦にもしない、と言って、主人が二人に、門の前の掃除と、手水鉢(ちょうずばち)の水の入れ替へを毎朝するように命じた。一人が箒を持って、そこらを掃いている中、一人は片手に塵取(ちりとり)をさげ、片手を懐手してポカンと待っている。貴様らのすることは、どうしてそう間が抜けているのか、と主人に叱られたりしたこともあった」

 2人の掃除嫌いについては、『筆まかせ』の「清水則遠」にも次のような一文がある。

「余性来懶惰(らんだ:めんどうくさがり)、俗事にかまはざるの傾きあれども君に比しては一等を譲らざるを得ず。余掃除をきらう、君は掃除を忘る。きらひなる者は五日や十日を堪え得べきも机上の塵、筆硯を葬り、八畳の室中故紙、竹皮、蜜柑の皮を以て累々たるに至りては、終に一帚の労を取らざるを得ざるなり。しかれども全く忘れたる者は、ごみを見たとて掃除を思ひ出すことなし。けだしそのごみ少しも目にふれざるなり。故に君と同居中は余常に箕箒(きそう:ちりとりとほうき)を取れり。(余は其後誰と居りても自ら掃ひしことなし、いつも他人に任す)これ即チ余が君とのこんくらべにまけたるなり。」

 藤野の思い出話では、誰が箒を持って、誰が片手を懐手してポカンと待っていたとは書かれていない。しかし、この一文を見ると、子規が掃き掃除をしている横で清水がポカンと待っている様子が想像できる。負けず嫌いの子規を根比べで負かしたほどの清水だからこそ、虚子が言うように真之とともに敬重されていたのかもしれない。

大三十日の借金始末

  子規と真之は神田の板垣という下宿屋で同居していた。真之が海軍兵学校に入学してここを出ていくと、子規は井林、清水と共に住むようになる。しかし、毎月の支払いが滞って年末には七、八円を残すのみとなってしまった。それでも下宿屋は毎日のように取り立てに来た。

「されば下宿屋の細君は十二月廿日の頃より毎日毎日之をはた(債)れども、瓢箪から駒を出すの仙術も知らねば、一日のばしのにげ口上に其日を送りぬ。かくて廿七日の頃に至りしに井林氏はかの催促に堪へざりけん、どこかに影を隠して一向に内へ帰らず。余は清水氏と二人にて攻めくる債鬼を追ひ払へども清水氏は黙々として微笑するのみ、三寸の舌剣を舞して敵の衝にあたるは己れ一人なりければ、三十一日即ち大三十一日といふ日に今はたまりかねて余は清水氏を内に残して家をいでぬ。こは甚だ不人情なる如くなれど、実は清水氏とも相談し「敵の攻め来るは常に余をめがけ来るなり。されば余にして居らずば、あながち君を攻むることもなかるべし」と約束し、明日麻布の久松邸にて相会せんとて去りしなり。」(筆まかせ「大三十日の借金始末」より)

こうして子規は下宿を逃げ出し、駿河台の三並の家で年を越した。翌日、子規が三並と旧藩主邸へ新年の挨拶に向かう途中で清水と出会った。そこで前日の様子を聞いてみると、

「君の遁走後、城を出て陣を張らば敵必ず責め来るべし、如かず城中に立てこもつて敵に応ぜざるにはと、乃ち奥の三畳に蒲団をかぶつて臥しゐたり(此時余等の借りし間は二間にて 前六畳奥三畳なりき)。されば一度は鬼の足跡も聞こえしかど、余の狸をきめしにせんかたなく、室をのぞきしばかりにて去りぬ。余はしすましたりと、なほもいきをこらしてひそみいる内に正午となりければ下女は膳を持ち来りて枕元におき立ち去りたり。余は飯を喰ひたくは思へども今まで寝てゐて、ちよいと飯だけ喰つて又寝るとは いくら僕だつて恥づることなしとせんやサ、つひにがまんして昼飯も晩飯もくはずとは実にひどがつたねへ、敵に攻め殺さるる事はまぬかれたれど、僕は飢にせまつて死ぬる心地したり」(同上)

こうして年が明けて元日になってからは、催促されることもなく雑煮にありつくことができたのだが、

「昨日一日籠城した男が今日は雑煮を五杯も六杯もかへては、間のわるきことさもこそと思ひやられたり」

という状況であったという。これを聞いた子規は不都合に思い、元日の晩も外泊して二日になってから下宿に戻っていった。