信玄と謙信


 

川中島古戦場跡にある信玄・謙信一騎打ちの銅像

 

 信玄と謙信とどっちが好きかと問ふと、謙信が好きぢゃといふ人が十の八、九である。梅ヶ谷と常陸山とどっちが好きかと問ふと、常陸山が好きぢゃといふ人が十の八、九である。その好き嫌ひについては、多少の原因がないではないが、多くはただ理屈もなしに、好きぢゃといふに過ぎぬ。しかし一般の人は自重的の人よりも、快活的の人を好むといふことが、知らず知らず、その好悪の大原因をなして居るかも知れぬ。余は回向院の角力を観たことがないので、贔屓の角力などはないがどつちかといふと梅ヶ谷の方を贔屓に思ふて居る。さうして子供の時から謙信よりも信玄がすきなやうに思ふ。それはどういふ訳だか自分にも分からぬ。 

『病牀六尺』 (六月十七日) 

 

 

 子規がここで述べている「謙信が好きぢゃといふ人」の一人が、彼の友人 真之である。このことについては、清河純一が次のように語っている。

 

 「秋山将軍は甲越の争には非常に興味を持っていたらしい。将軍の性格としては信玄よりも謙信の方が好きらしかった。といって謙信が好きかと正面から聞いてゆくと、例の負けず嫌いの性格で、図星をさされるのが嫌いだから、これを否認していたようだったが、どうもいろいろの節から推して謙信が好きだったように思われる。また将軍が謙信のような人だというと、相当反対論が出るであろうが、人物の全部が然うでないまでも何処か一致した点があった。しかしその戦法となると、将軍の戦法は寧ろ謙信流よりも信玄流の方に近いと思われる。将軍の作戦計画は極めて科学的で綿密であったからだ。」

 

 幼少の頃に自重的というよりも臆病であった子規が信玄好きであり、快活的で腕白だった真之が謙信好きというのは何となく分かるような気がする。

 一方、好古についてはこのことに関する話が残っていない。ただ、好古と謙信には「酒豪」という共通点がある。米沢の上杉神社には「馬上杯」という大杯が残されているので、謙信も戦場で馬に乗りながら酒を呑んでいたのかもしれない。謙信は塩辛や梅干をさかなに酒を飲んでいたため血圧が上がり、脳卒中で亡くなった(倒れた場所がトイレだったので、『謙信は便所の底に潜んでいた忍者に槍でケツをさされて死んだ』という珍説もある)。彼が死の一ヶ月前に残した辞世の詩は、

 

四十九年一睡夢  一期栄華一盃酒