白川義則

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左から白川義則、英国グロスター公爵、秩父宮。昭和5年頃の写真。長谷川怜氏提供。


< 1868〜1932 >

 松山藩出身。幼名精一郎。松山中学を中退した後、給仕として県庁に勤務したが、下級役人に酷使されたことに憤慨し三日で退職。翌年には小学校の代用教員となったが、父の死で家計が困窮したことを機に陸軍教導団の試験を受ける。この時、身長が足りなくて不合格になるところを辛うじて合格させてもらったと言われている。その後、陸軍士官学校に進み第一期卒業。明治26年には陸大に入学するが、日清戦争により中退して中尉として出征した。戦後、復校し第十二期生として卒業する。日露戦争では連隊大隊長として出征し、首山堡攻略戦などに参戦。後に第13師団参謀として樺太攻略にも従軍した。戦後は第11師団長、陸軍省人事局長、陸軍大臣、関東軍司令官、航空部本部長などを歴任。上海派遣軍司令官として上海事件の収拾に当たった昭和7年、爆弾テロに遭い死去。


白川の逸話

首山堡攻撃の前夜、橘周太が白川のもとを訪れた。「前哨線の状況報告が食い違っているようでございますから、これから見回りたいと存じますが、ご一緒に行って下さいますか」と、同格の大隊長でありながら物腰の丁寧な橘の態度に白川は感心したという。翌日の攻撃では、白川部は橘隊と共に突撃を開始。白川は双眼鏡で橘の奮戦を見つつ、自らも先頭に立って敵陣へ突入した。この激戦で白川隊は彼を含めて5名しか残らず、戦闘終結後に視察に訪れた野津に対し「私のそばには弾がブスリブスリと前後に落ちましたが、不思議と私には当たりませんでした」と語っている。

日露戦争写真画報 第七巻に掲載されている第五師団将校写真。
上段の右端が本郷房太郎、下段の左から二人目が白川義則。
本郷隊は得利寺の戦闘に於いて白川隊の援軍に駆けつけている。



  田中義一内閣の陸相を務めたのは白川であるが、この二人には不思議な縁がある。白川が幼少の頃、隣家に長州出身の書生が居候していた。あまり行儀の良くない人物だったらしく、白川の母も「お隣に住んでいるノッポの書生さんは箒の掃き方が雑で、小石を飛ばしてばかりいる」などと言っていた。そして数十年後・・・、「田中さんは松山に住んでいましたよね。私は子供の頃に田中さんを見ましたよ」「そういえばあの頃、隣に白川という一家が住んでいたが・・・・、あの家の子供は君だったのか!」。ちなみに、白川は当時の田中の事を「何しろ乱暴な書生だった。俺の家の方へゴミを掃き飛ばすし、ウラの垣根から垣根をたたき落としたりしたよ」と語っている。


 上海事変が勃発した昭和7年1月、上海派遣軍司令官に就任した白川は昭和天皇の期待に応えて陸軍の暴走を抑え、停戦を断行して3月には事態の収拾に成功した。しかしその翌月、天長節祝賀会の際に朝鮮人が投げた爆弾で重傷を負う。この時、白川は全身に108ヶ所もの傷を負いながらも、血を拭う事もなく悠々と壇上から降り、手当てを受けながら現場の指揮を執ると共に、同じく重傷を負った野村吉三郎、重光葵の容態を軍医に訊ねていたという。その後、手術を受けた白川であったが、翌月に容態が急変して亡くなった。白川の死を悲しんだ昭和天皇は「をとめらのひなまつる日にいくさをばとどめしいさをおもひてにけり」との御製を侍従長の鈴木貫太郎に持たせ、白川家の遺族に贈っている。

秋山兄弟と白川

 明治27年、陸大に入学した白川は好古の家に住ませてもらうことになった。ちょうど幼馴染の真之が出ていた後であり、彼の口添えで入れ替わりに入居したという。白川は二階に住んでおり、食事が出来た頃には好古の娘が「ニカエぢいちゃん(二階のおじちゃん)御飯」と知らせに来ていた。好古の娘は嫁いだ後でも、白川のことを「ニカエぢいちゃん」と呼んでいた。


 白川が陸軍次官だった頃のある日、教育総監の好古が部下の人事に関する希望を葉書に大きく書いて送ってきた。白川は驚いて、
「人事は秘密を要しますから、以後葉書ではなく、親展書として書いて頂きたいものです」
「それぢゃ、電話で言おうか」
「電話では、後に書類が残りませんから、やはり書物にして頂きたいので・・・・・・」


 好古の家で居候している頃に仕込まれたせいか、白川もかなりの酒飲みであった。少佐時代には佃一予らと3人で一晩飲み明かし、一斗近い酒を平らげたこともあった。後に佃は医者から「酒さえ飲まなければ百以上まで生きられる万人に一人しかいない体だ」と言われ、「酒を飲まなければよかった」と後悔した。この話を聞いた白川も「酒はやめよう」と禁酒したが、半年もすると「百年生きても仕方ない。飲みたいものは飲んだ方がいい」と言ってまた酒を飲み始めた。


 好古は白川の事をいつも気にかけ、隊長としての心得は「邪念を去ること」と教えたほか、白川が陸軍で栄達した後も会うたびに「白川、勉強しているか」と声をかけていた。このように好古の薫陶を受けていた白川はその思想をよく理解しており、ある人が「秋山さんは元帥になるべき人である。日露戦争でコサックの大軍を破ったというだけでも元帥の値打ちはあるのに・・・」と言うと、白川は「そういうことは言うべきものではない。秋山さんは人間としての元帥だ」と諭したという。


 好古は同郷の師として、そして真之は幼馴染として、秋山兄弟と白川との交流は終世続いた。白川は真之、好古それぞれの病床にも駆けつけ、二人の最後も看取っている。現在、白川の墓所は師である好古の墓所の近くに建てられている。