木葉、田原坂

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木葉駅周辺



 明治10年2月22日の「植木の戦い」で敗れ、軍旗を失った乃木の第14連隊は木葉に後退。翌23日早朝に再び薩軍と交戦をしています。この時、薩軍兵力1800名に対し、乃木が率いる連隊は約700名。苦戦が続く前線で吉松少佐が伝令で連隊本部に増援を要請すると、「兵を出す余裕がないから自分がここで指揮を執る」と乃木連隊長自身がやってきたそうです。吉松は乃木を説得して後方に戻したあとも奮戦しますが、重傷を負い戦死。


 「吉松少佐をたたえる詩碑」(地図@)は木葉駅から徒歩数分のところにあります。この後方には西南戦争で亡くなった官軍兵士達を埋葬した高月官軍墓地があります。


 吉松少佐が敵を食い止めている間に乃木は部隊を後退させようとしますが、その途中で薩軍の迂回奇襲に遭います(地図A)。

 薩軍に囲まれた乃木は、激戦中に馬が銃弾に倒れてこの地で落馬。この時、大橋伍長、摺沢少尉の二人が身を盾にして乃木を庇って戦死し、九死に一生を得た乃木は高瀬北方へ退却することができたそうです。

  「乃木第14連隊長奮戦の地」の案内板に載っている錦絵。乃木奮戦の地なのに、なぜ野津道貫大佐の奮戦??


田原坂



 明治10年3月4日、政府軍による田原坂攻撃が始まります。この当時、福岡方面から進軍する部隊が大砲を引いて通ることのできる道はこの田原坂しかなく、熊本城を築いた加藤清正はこの地を掘りぬいて坂の両側から挟撃できるようにしていたそうです。


 木葉駅から15分ほど歩いたところにある「田原坂官軍攻撃第一戦」(地図@)。


 そこからさらに進むと、熊本県内最古の石橋(1802年頃)「豊岡の眼鏡橋」があります(地図A)。官軍兵士はこの橋を渡って、写真中央部に見える田原坂の登り口へ出撃していきました。


 そしてここが田原坂の一の坂(写真B)。薩軍は両側の斜面上に陣取り、ここを通過する政府軍を挟撃していました。(この日は電車の時間と天候の都合上、見学は登り口付近で断念)


 「官軍本営跡」(地図C)。第一旅団長 野津鎮雄少将、第二旅団長 三好重臣少将、第二旅団参謀長 野津道貫大佐、征討別働隊第一旅団司令官 大山巌少将らが集まり、何度か作戦会議を開いた場所です。


 「有栖川宮督戦の地」(地図D)。大本営近くの小高い丘の上にあり、戦況を見渡すことが出来る場所です。征討総督であった有栖川宮はこの地に何度も督戦に来たそうです。