騎兵監

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 明治三十九年二月九日、習志野の衛戍地(えいじゅち)に凱旋した将軍は、その六日付で、待っていたように騎兵監転補の辞令を受けた。前騎兵監渋谷少将(在明)の輜重兵監に転じた後を承けたのである。戦後の騎兵科革新のために、騎兵部隊統率の経験に於いて、またその識見及び理想に於いて、最大権威と目さるる将軍の任用は、まさに適材を適所に挙げたものであろう。
 その四月、戦後第一回の師団長会議が開催されたが、その時将軍は、騎兵教育に関して左の要旨の意見を述べた。
「戦勝の余光は一般社会の風教に変化を来たし、または外国将校等との交際も漸次増加するに当たり、奢侈(しゃし)の風を増長するの傾向なしとせず。然れども質素は軍人の恪守(かくしゅ)すべき最大要目なるを以て、社会的の風潮に伴わず、礼儀を失せず、体面を損せざるを以て足れりとし、清廉潔白の気風を養成し、断じて奢侈の風に陥らしめざるを要す」
 実に将軍は、戦勝の慢心により生ずる偸安(とうあん)と、奢侈の風潮とを憂い、斯くては騎兵の特性に大影響あり、また騎兵科向上に害あるべきを思い、機会ある毎に士気の緊張を力説したのであった。さればその騎兵科に下した訓示は、切々将軍の真精神を顕現せるものであった。
「欠乏に堪え困扼に撓(たわ)まず、障碍(しょうがい)に屈せず、堪忍不抜の志節養成するは軍隊練成の要旨なり。戦闘を以て主眼とする軍人は平戦両時を問わず、この性能を具備せざるべからず。故に屡々(しばしば)この実況を蹈(ふ)ましむる場合を設け、平時これに慣馴せしめ、且つ自信力を養成するを要す」
 また騎兵将校の戦術能力の増進は、将軍の夙(つと)に唱道し、指導し、また奨励し来ったところであるが、これに就いても随時訓示して、その持説を開陳した。
「戦術問題は、必ずしも一支隊に局限せず、屡々広大なる範囲に於ける想定を設け、各兵種、各部隊の用法を、その職能に適応して詳細に研究し、大軍の共同動作を会得せしめ、併せて知識と限界を遠大に進むる教育法を執るを要す。特に騎兵に在りては、広大なる作戦地域内に於ける捜索、その他の勤務を研究せしめざるべからず」
 将軍はまた駸々(しんしん)たる科学の発達に由る将来を洞察し、種々の場合に於いて、口演に或いは訓示に、騎兵教育の複雑かを力説高調したが、今日に至ってこれを顧みるとき、如何に将軍の見識が卓越高邁(こうまい)なものであったか、洵(じゅん)に讃嘆を禁じ得ざるものがある。
 戦後の論功行賞に於いて、将軍は功二級金鵄勲章を賜った。将軍の抜群の勲功を以てしては、この恩賞は蓋し当然のことといえるであろう。
 この頃ある一夕、騎兵関係の宴会が、九段坂上の富士見軒で催された。その時将軍はふと隣席にいた軍馬補充部本部高級部員増田大佐(熊六)に話しかけた。
「補充部の牧場には、大分不正事件が出るようぢゃが、困ったものぢゃね」
 当時騎兵監部と軍馬補充部との間には、何かの意見対立から、部員相互の間にやや確執的な気持ちのあった時分であるから、そういう風に話しかけられた増田大佐の頭には、何か知らずピンと来たものがあった。
「秋山さんは、他所の畑に鍬を打ち込もうとするのか」
 これは瞬間的に増田大佐の頭に閃いた感情だった。
「御尤(もっと)もで洵に恐れ入りました。しかし御管下のあの箱庭のような狭い連隊で、しかも軍紀を以てのぞみながらも、営内の到る所で、将校の知らない間に、時々私刑が行われていると聞いています。何を申せ、牧場は広袤(こうぼう)十里、目が届きかねて困っています」
 大佐はかく言い放って、冷然と将軍を見返した。将軍に対する言としては随分思い切ったものであった。然るにこの人もなげなる増田大佐の言葉に対して、将軍は如何に激怒するかと思いきや、呵々(かか)大笑して、
「増田! 見事にやられたよ。人のアラはよく見えるが、自分のことは見えんもんぢゃ、参った! 参った!」
 この言葉には、何ら揶揄的な気配もなく、わざとらしい作為もなく、真に将軍らしい無邪気さがあった。

 将軍の部下に対する態度は、多くは教訓的であって、統率道に徹したものであった。ある時、安東中佐(直康)が、反抗的行為のあった部下の某将校の処置に就いて、将軍に訴え出たことがある。その時将軍は、安東中佐とその将校とを面前に置いて、
「如何なる人にでも事えることの出来る者でなければ、如何なる人をも使うことはできぬものぢゃ」
 将軍の言葉はただそれだけであった。これ如何に難しい性格の人にでも、誠意を以て服従する心懸けのある者でなければ、自分が統御の地位に立った場合、今度は難しい性格の人を服従させることは出来ない、という将軍の統率道を、寸言の裏に言い現したものであった。
 明治四十三年、東北地方に於ける騎兵演習の際、将軍は夜間宿営地に於ける警戒勤務の状況を視察した。その時、某の騎砲兵隊長は露営に於いて酒を酌んで鬱をはらい、将軍が巡視するや、その袖にすがって不平を訴えたのである。それは当日の午前、後藤野原に於ける騎兵戦に、某少将の旅団に属していたこの騎砲兵の戦闘参加が遅延したというので、将軍から大いに叱責を受けたのである。しかしその原因は旅団長の区処に違算があったためで、騎砲兵隊長としては、万全を尽くし叱責を受ける理由は毫(ごう)もないというので、その騎砲兵隊長は非常に憤慨し、今将軍に泣いてその事情を訴えたわけである。将軍は熱涙に咽ぶ隊長の肩を叩きつつ、
「よく解った、明日はしっかりやれ!」
 将軍はそのままそこを立ち去ったのであった。

 当時、陸軍騎兵学校には、甲、乙両学生共に、十二月入校、翌年十一月帰隊せしめる制度であった。従って年中無休暇で、夏期休暇さえもなく、他の学校にその類例を見ないことであった。そこで当時の学校当局は、この事を騎兵監たる将軍に訴えて、休暇を得ることを請うた。将軍は、
「馬には夏期休暇はない。馬に乗る学校には休暇のないのは当然ぢゃ」
と言って休暇を許可しなかったが、将軍自らもまた、病気の時の外、一切休暇をしたことはなかった。現に騎兵第一旅団長時代にも、ある機会に於いて、旅団の将校に次の如く述べたことがある。
「自分は任官以来今日まで、一回も休暇を実施したことはない。家事故障の如きは、休暇を願わなくとも、何とか都合して遣り遂げられるものである」

 将軍が騎兵第十三連隊の教育検閲を行った際、下士の馬術を実施せしめた。その時、平素演習を余り行わない中隊及び連隊本部付下士を一班に集めて、特に検閲を行ったが、その乗馬は日露戦争当時購買した豪州産馬なるに加えて、新しき軍鞍であったため、演習になれざる下士は、騎坐変をして散々に苦しんだ。それに将軍はさらに鐙(あぶみ)を脱せしめたから、乗馬者はともすれば落馬せんとした。将軍は「ああ、こぼれる、こぼれる」と二三回繰り返しているうちに、一下士は見事に落馬した。
「おー、怪我はないか」
 将軍はその側に行って懇ろに問うた。将軍は常に温かき情をもちつつ、厳(おごそ)かなる訓練を要求したのであった。

 明治四十一年秋の第七回特別大演習は、奈良平地に於いて行われたが、明治天皇御統監、参謀総長奥大将(保鞏)を幕僚長として、南軍司令官乃木大将(希典)と北軍司令官伏見大将宮貞愛親王殿下とが相対抗した。その時南軍に属したものは第四師団、第十一師団の二個師団、北軍に属したものは第十師団、第十六師団の二個師団で、騎兵監であった秋山将軍は南軍参謀長として、大演習に従ったのであった。
 乃木司令官と秋山参謀長とはまたとなき好個の組み合わせであった。日露戦争中明治三十八年一月、乃木第三軍の北上以来、秋山支隊は同軍司令官の隷下に入り、黒溝台にまた奉天に、悪戦苦闘を共にし、乃木大将と将軍とは、戦争に依って結ばれた間柄であったのみでなく、その古武士的風格に於いても、相共通したる点が多かったため、特に肝胆相照らす間柄であった。それが今大演習の一方軍の首脳部を形づくることとなったのである。

 翌四十二年五月には、第一、第二、第十三師団特命検閲使長谷川大将(好道)の高級随員として、右師団を巡視した。
 同年八月一日、現職のまま陸軍中将に陞進した。
 翌四十三年三月には、満州及び韓国へ差遣された。戦後の諸経営並びに同地にある騎兵部隊を巡視するためであった。
 四十五年七月、明治天皇の崩御、九月に御大喪の儀行はせられたが、将軍は仏国派遣大使の接伴委員を仰せ付けられた。
 この時将軍が大いに困ったことがある。あたかも御大葬儀を二三日前に控えた日、突然大使夫人が、ダイヤ製の髪飾を紛失したと言い出した。これはパリにて数万円を投じて購買したものであって、日本では得難いものであった。夫人は涙を以て将軍に訴え出たので、将軍は百方手段を尽くして索(もと)めたが、どうしても見えない。そこで将軍は夫人に対し、「所持品中に紛れているかも知れないから、もう一度捜索して頂きたい」と注意し、夫人も然からばとて捜索したところ、果たして所持品中にしまい忘れていたことを発見した。恐らく将軍は、「女子とか小人とは養い難しとは古今東西一轍(いってつ)である」と思ったことであろう。

 衛戍地 : 軍隊が長く駐屯して防衛する重要地域。
 騎兵監 : 教育総監の隷下にあり、騎兵に関する事項の調査、研究、人事などを担った役職。
        好古の後任は豊辺新作。
 軍馬補充部 : 陸軍省の外局。軍馬の供給、調教など馬政業務を扱った。
 奢侈 : 度を過ぎた贅沢。
 恪守 : まじめに守り従うこと。
 偸安 : 目先の安楽を求めること。
 障碍 : =障害
 駸々たる : 物事の進行が速いさま。
 高邁 : 優れていること。
 洵 : まことに。
 広袤 : 広さ、面積。
 呵々 : 大声で笑う様子。
 事える : =仕える
 毫も : 少しも
 肝胆相照らす : 心の底まで打ち明けて親しくつきあう。
 一轍 : 同じであること。


※明治39年5月、沙河会戦で騎兵旅団長として活躍した閑院宮載仁親王を総裁とする「東京競馬会」が発足、国内で馬券付き競馬が本格的に始まるようになった。これは日露戦争で騎兵戦力の必要性を感じた政府が馬匹改良方策の一環として「黙認」したものであり、当時の新聞では司法省が「競馬は刑法上の賭博にはあたらない」と発表したこと、売り上げの一部が馬匹奨励費に充てられることなどが報じられた。しかし、この司法省の通達も正式なものではなかったために、政府内部や議会でも問題となり、2年後には全面的な馬券発売禁止ということになってしまった。
 明治41年、騎兵第二旅団の将校2名が昼間に競馬場で馬券を購入していたという記事が新聞に載り、陸軍内部で大問題となった。当時旅団長であった田村久井が部下と共に調査を行い、これを機に軍内部での発言力を強化させようとして騎兵将校を告発した憲兵隊と対立した。結局、将校の馬券購入は事実無根であったが、この一件で憲兵隊を管轄する陸相寺内正毅の心象を害することになってしまった田村は定年まで旅団長止まりとなり、少将のまま予備役へ編入されてしまった。

※明治天皇大葬の日(9月13日)に殉死した乃木希典の葬儀は9月18日に行われた。斎場に向かう乃木の棺には好古、一戸兵衛など生前交友のあった軍人達が付き添った。