平和会議

坂の上の雲 > 秋山好古 > 第六章 > 第二 平和会議

  明治四十年(一九○七年)六月十五日より、和蘭海牙に於いて第二回万国平和会議が開かれることになった。本会議は明治三十二年(一八九九年)の第一回万国平和会議に引き続くべきものであって、三十七年(一九○四年)九月に早くもその時期に達していたが、偶々日露戦争のため開催を見るに至らなかったのである。
 されば日露戦争の終わるや、三十八年(一九○五年)十一月、第一回平和会議の主唱者たりし露国より第二回平和会議の案内を、汎(ひろ)く全世界の独立国に発し、その賛同を得た後、会議の内容に就いて協議を重ね、ついに四十年六月十五日より再び海牙にて開催することとなったのである。参加国四十五国、派遣員合計二百五十八名に達し、列国知名の外交官を網羅して、真に稀に見る盛観であった。
 日本よりは全権に都築馨六氏及び佐藤愛麿氏、陸軍専門委員に秋山将軍、海軍専門委員に海軍少将島村速雄氏がそれぞれ選任された。
 全権一行は四月二十七日に東京出発、西比利亜鉄道により露都ペテルスブルグ、独都伯林を経て和蘭海牙に到着した。
 会議は六月十五日、名誉議長和蘭外務大臣の演説を以て開会され、爾後十月十八日に至る五ヶ月間、露国全権ネリドフ氏を議長として、数次の会合を重ねて、十三の条約を締結し、一の宣言を発し、また二種の決議を決定し、四種の希望を声明したが、要するに戦争の機会をなるべく減少せしむること、及び戦争の場合にはなるべくその惨害を減少せしむることの二項を基調とするものであった。
 けれども当時の国際情勢を見れば、欧州に於いては三国同盟対三国協商の対立状態が実現せる初期であって、平和会議などは、実は余りに空々しいものであった。その会議の挙げ得たる業績は、数こそ多けれ、実質は頗る貧弱なものであって、初期の目的乃至最初の企画とは、凡そ縁遠いものであった。さればその会議の実情も、各国に真に平和を愛好する熱情の認むべきものなく、精神的にだれきったものであった。
 将軍は斯様(かよう)な雰囲気を見て、会議早々にして会議の前途を逆睹(ぎゃくと)し、一切の希望を抱かなかった。将軍は平和国の鎧を包む法衣の如き平和会議を見たのである。総会の席上、列国委員が各々儀礼と礼装とにカモフラージュして、美辞麗句の外交辞令を弄している時、将軍は終始居眠をしていた。
 もっとも議場内で居眠りをしていたのは、独り将軍ばかりではなく、列国代表、委員の中にも、相当にあった。しかしそれらの者の眠方には、技巧が加えられ、修飾が施され、眠方もスマートであり、上品であった。即ち多くの者は両肘をついて両手で頭を支え、書類を顔の下に広げ、それを読みかつ考えてでもいるかの風を装っていた。然るに将軍の眠方は徹底したもので、右手で頬杖をつき、空嘯(そらうそぶ)いて堂々と居眠りしていたのである。しかも時には鼾声が議場の静寂を破ることもあった。
 かかる間に会議も大分進んで、公海に於ける機雷沈設許可否の議論が、闌(たけなわ)になった一日である。ブラジル全権がこれを否なりとして、三時間あまりにわたる大演説をなし、満場これを傾聴している時、将軍は例の通り居眠りを始め、そのあたり憚らぬ鼾声はブラジル全権の熱弁にコーラスし出したのである。都築全権はヒヤヒヤして、頻りに視線を隣席の外務相法律顧問デニソン氏を越えて将軍の上に注ぐけれども、素よりそれは将軍の眠りを呼びさます術にはならなかった。やがてさしもの長演説も終わったので、直ちに散会が宣せられ、満堂同時に起ち上がった。するとその物音に夢を破られた将軍は、遅ればせにやおら起ち上がりながら、
「大議論でしたなア」
 両肩を張り背のびしながら大欠伸(おおあくび)したので、都築全権はやや怒気を含んで、
「貴方は、眠っていたぢゃありませんか」
「いや、要領だけは判りましたよ」
 島村少将始め随員一同は、思わず吹き出してしまった。列国委員環視の中で、堂々と居眠りをつづける将軍の度胸には、一同ひそかに驚嘆し、国威発揚の居眠りだと、心中窃に快哉(かいさい)を叫んだ者もあった。
 後で将軍は、
「都築は元は俺よりも後輩なんだが、今は上官だから叱られても仕方がない」
 都築氏は将軍より二つ年下の文久元年二月生れ、その任官も将軍よりは遅かったのであるが、文官に出身したがため、この時の官等は将軍を越えて進んでいたのであった。
 会議当時、ホテル・デ・サンドのホールの茶飲み時間には、各国代表はホールもバルコニーも立錐の余地なきほどに陣取って、賑やかに茶菓をとるのが例であった。もちろん夫人も令嬢も一緒であった。ある日、日本委員は中央に近い円卓を囲んで、茶菓をとった。将軍は卓を少し離れた、底の孤形になった安楽椅子に深く寄りかかり、気持ちよさそうに椅子を前後に揺すっていたが、勢い余って後ろにひっくり返った。そのとたん足が卓に引っかかったので、卓は跳ね上がり、卓上の茶器や菓子皿が、一大音響と共に華やかな儀礼場の真ん中に散乱した。満堂は、この物音に期せずして総立ちになった。隣席の円卓を占領していた英国委員オットレー氏が飛んできて「Explosion of mine(機雷の爆発)」と高らかに叫び、起きあがらんとする将軍を見つめた。
 その時将軍は、悠々と起きあがりざま、気合いを逸せず、
「ノー・ラッタック・ド・キャバルリー(騎兵の襲撃だ)」
 微笑を含んで応酬したので、歓声どっと起こって、きまりの悪かるべき失敗がたちまち勝利と化して、却って日本委員の肩身をひろからしめた。
 海牙滞在中、ホテル・デ・サンドに於ける将軍の室は、島村少将の隣室であったが、物事に無頓着な将軍は、自分の室に付属したバスルームがあるか、どうかなどは、更に気がつかなかった。投宿後余程時日のたったある日、入浴直後の島村少将が将軍の室に来た。将軍は島村少将に、
「君はどこで風呂に入ってきたんぢゃ」
「自室の風呂ぢゃよ」
「そうか、俺の室には風呂がないのぢゃ」
「いやそんな筈はない」
「いや、確かにない」
 暫く押し問答を繰り返した末、結局二人揃って将軍の室を調べたら、やはり将軍の室の壁一重の隣には、立派なバスルームが付いていたのである。
 二人は大笑いの後で、島村少将は、
「では、君はまだ風呂に入ったことがないのか」
「うむ、俺はまだ入らんよ」
「そらぁ汚いなぁ」
「なあに、風呂へ入らんでも、死にやせんよ。俺は満州出征中は風呂なぞには滅多に入ることはなかったのぢゃ」
 さて会議は十月十八日を以て閉会を告げた。この日議長ネリドフ氏の閉会の辞、英国全権フライ氏、日本全権都築氏の演説があった。何れも平和を賛美し、今回の平和会議の成功を称えたけれども、その実質とは余りに懸け離れたものであった。
 会議閉会後、都築全権は一行を伴って英、独、露、墺、伊等の各国を巡遊した。その英国巡遊中のことである。「日本の秋山将軍」は、日露戦争に於ける勇猛騎兵将軍として、全世界にその名を轟かしていた時であったから、英国各所の騎兵隊では、将軍を招いては盛んな歓迎会を催した。当時柴少将(五郎)は我が大使館付き武官として渡英していたから、いつも将軍と同行した。
 何処の宴会場でも、歓迎の辞として口を極めて将軍の戦功を称えた。然るに将軍は、元来英語は解しないので、その英国将校の言葉を、柴少将に通訳を頼むのかと思えば、そうではなく、また答辞を通訳に頼むかと思えば、これも然らず、その度に将軍はすくっと立ち上がって、歓迎の辞が何であろうとも、それにはお構いなく、将軍は将軍で、得意のフランス語を以て、堂々と答辞をやってのけた。すると今度は、英国将校の中には仏語を解する者が余りなかったので、結局は到る所の宴会場で、双方共に不可解な禅問答で終わったのであった。
 やはり英国巡遊中の一日、ロンドンでは在留邦人が、テームス河に船を浮かべて、一行を歓迎してくれた。英国の風習として、小さいボートに夫婦差し向かいで、一人はオールを握り、一人は舵を操って、河を上下する者が多かった。これを見た将軍は、
「朝から晩まで、終日女房の顔を見守っていなければならぬとは、随分御苦労様な奴等ぢゃ」
 将軍の口からこの諧謔が出たので、一同吹き出してしまった。
 平和会議に出張中、将軍が夫人に対して寄せた書信の中、左の一書は将軍の面目を実に躍如たらしめている。

 不相変無異相暮シ居候会議事項ハ略了候得共全部ノ調印ヲ了ル迄ニハ十月中旬ト可相成帰朝ハ本年末ナラン
 毎日々々燕尾服ニテ食事ヤ友会ニ忙殺サレ世界的御馳走ノ包囲攻撃ヲ受ケ貧乏書生ヨリ遽カニ紳士ト化ケタルニ余ニハ閉口千萬ニ候金ハ毎月千円余モ支給サレ居レドモ中々足ラズ候ニ付御土産等ハ一切止メニセリ
 陸軍ニ関スル用務ハ全ク結了ニ付本月末ニハ巴里ヘ一寸ト遊ビニ行ク積リナリ
 ××モ無事ナレドモ非常ニ貧乏イタシ居レリ久ト信ハ松山ヘ行キシ由男子ハ可成貧乏生活ニ慣シムルコト緊要ナリ用事ナケレド一寸ト一筆
    九月十一日    好古
  民子殿
  親類ソノ他ヘ宜敷

 斯くして将軍は、十二月五日伊国ネープルスより軍艦に便乗し、翌四十一年一月十二日無事帰朝、同月二十四日を以て、都築全権は復命し、随員一同は御陪食の光栄に浴したのである。


 和蘭 : オランダ
 海牙 : ハーグ
 西比利亜 : シベリア
 伯林 : ベルリン
 逆睹 : 物事の結末をあらかじめ予測すること。
 空嘯いて : 知らないふりをする。
 闌 : 最も盛んになった時。
 快哉 : 胸がすくこと。


※都築馨六(1861〜1923) : 群馬出身。フランス留学中に山県有朋の随員となり、欧米視察に随行する。その後、山県がロシア皇帝戴冠式に出席した際も随員となり、山県・ロマノフ協定の締結にも貢献した。伊藤の外交政策をサポートしている。

※第2回万国平和会議 : この会議の提唱者はロシアのニコライ2世である。膨張主義を押し進めたロシアがこのような平和会議の積極的な推進者であったということは、軍拡競争による財政負担に苦しんでいたことを示しており、これは他の列強各国も同様であった。結局この会議は第一次世界大戦の勃発を阻止することはできなかったが、この経験は国際連盟をなどの平和的機関に受け継がれることになる。
 日本ではこの会議そのものよりも、会議中に起きた「ハーグ密使事件」のほうがよく知られている。これは朝鮮国王・高宗が会議に密使を派遣し、1905年に締結された日韓保護条約の無効を会議場で訴えることを計画したが、朝鮮は外交権を持たないとの理由で密使が会議への出席を認められなかったというものである。日本はこの事件を機に高宗を退位させ、7月には第3次日韓協約を締結して韓国軍を解散させた。

※三国同盟対三国協商:三国同盟は1882年に調印されたドイツ、オーストリア=ハンガリー、イタリア間の秘密同盟。一方、それに対抗する形で露仏同盟(1891年)、英仏協商(1904年)、英露協商(1907年)の成立の結果生じたイギリス−フランス−ロシア間の友好協力体制が三国協商。

※柴五郎(1860〜1945):会津藩出身。陸軍士官学校3期生(好古とは同期)、陸軍大将。北清事変では駐在武官として籠城戦を指揮し、その功を称えられる。日露戦争では野砲兵第15聯隊長として出征する。戦後は英国大使館付武官、第12師団長、台湾軍司令官などを歴任。太平洋戦争終結後の9月15日に自決未遂。一命をとりとめるが、その年の12月に死去。


※この会議でドイツ委員は強気な態度であることが多く、機雷使用に関する委員会では「人道正義のためと言っても、国家を犠牲にすることはできない。ドイツは公海に機雷を設置する権利を保留する」と自国中心の発言をしたことがあった。この発言に対し、島村は「自我の主張に固執し、人道正義を顧みず、互いに譲り合うことが全くなければ、我々がこの平和会議のために集まる必要もない。今まで長い時間をかけて進めてきた会議の結果も水泡に帰すだろう」と論破し、各国委員の賛同を得た。この後、ドイツ委員は態度を改めたという。

※この会議中、海軍随員の森山慶三郎から「あなたは出征中、奥さんに手紙を送ったことがありますか」と聞かれた好古は「いや、俺は一年半の間に一本も送ってない」と答えたという。

前列:向かって右から一人目が島村、三人目が都築、五人目が好古。
後列:向かって右から四人目が随員として同行していた森山慶三郎。