校長就任

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 陸軍大将従二位勲一等功二級秋山好古!
 これが将軍の武人としての最後の英姿であった。赫々たる武勲を青史に遺し、将軍は今四十七年の軍人生活を終えて、その腰の軍刀を解いたのである。功成り、名遂げ、残生を慰安と休養とに委せることが許されるべき時になったのである。
 しかし将軍は、慰安も休養も欲せず、生涯を挙げて無休主義なのである。大正十二年三月三十一日、六十五歳を以て予備役を仰せ付けられた将軍は、直ちに北海道の牧畜事業に眼をつけた。日本馬匹の改良を目指したのである。恰(あたか)も好し同郷の親友にして、大阪に帯革製造所を経営し、傍ら北海道十勝帯広に牧場を所有していた新田長次郎氏が、その牧畜事業の始動を将軍に請うたので、将軍はこれを快諾して北海道に行き、その牧場を親しく視察して経営の計画を樹てたのである。
 然るに図らずも将軍が軍職を退いてから丁度一年目、大正十三年四月に郷里松山市に在る私立北豫中学校の校長に就任することになった。ここに於いて将軍はその自説たる無休主義を、牧場経営の代わりに、学校長として実行することとなったのである。陸軍大将を学校長として中学校は、全く前例のないことであった。

 北豫中学校は明治二十六年、城哲三郎氏の開いた北豫英学校に始まる。当時は微々たる一私塾に過ぎなかったが、城氏の燃ゆるが如き意志は、三十二年に至り遂にこれを中学校に昇格せしめて、名も北豫中学校と改めた。しかしその財政上には幾多の難関あり※補足1、その経営は中々容易でなかったが、城氏に継いだ校長白川福儀氏逝きて、加藤彰廉氏が代わって校長となった頃から、学校は頓(とみ)に充実整備して内外ともに面目を一新し※補足2、信用も大いに増大したのであった。加藤氏は明治十七年に帝国大学を出でて以来、教育事業に専念し、大阪高等商業学校長を最後に教育界を引退したが、自ら求めざるに大阪市より衆議院議員に推されて中央政界に出たこともある人であった。されば再び中学校長として、教育界に戻るということは、氏の素意に反したところであったが、郷党並びに松山立身者の懇望黙し難く、遂に校長たるを受諾するに至ったのである。

 将軍が北豫中学校と直接関係を結んだのは、白川校長時代の末期及び加藤校長就任問題の頃からであって、白川校長が学校拡張計画を抱いて東京に上るや、将軍は同郷の加藤恒忠、勝田主計氏等と共に、その画策に与り、また加藤校長招聘に関しては、それらの人々と共に説得役に当たったのであった。これに関し加藤恒忠氏は北豫中学会の理事 井上要氏に左の書信を寄せている。
「・・・就いては北豫校長の件昨日本人よりいよいよ承諾書発送済みの旨申越候。就いては秋山、門田、内藤、恒吉、勝田五氏と相謀り来る二十四日新校長を招き一同より謝意を表し将来の発展策に付いても相互の意見交換の筈に御座候。また報酬の件に関しては彼我の間に於いて一言も話及不致候・・・」(大正五年二月)
 なおこの加藤校長の承諾には、大阪の新田長次郎氏の熱誠なる懇嘱も、有力なる一因であった。

 さて北豫中学校は加藤校長の下に、着々育英の成績を挙げつつあったが、大正十二年四月に私立松山高等商業学校が創立され、加藤校長が同校の校長に擬せられるに及んで問題が起こった。松山高等商業学校は新田長次郎氏の提供した資金を基礎とし、井上要、岩崎一高、新田萬次郎、加藤恒忠、加藤彰廉、恒吉忠道氏等の努力の結果成りたるものであって、校長には加藤彰廉が推されることとなった。
 然るに創立者は、加藤氏が当然北中、高商の両校長を兼ねるものと思っていたところ、加藤氏は高商校長に就任すると共に、北中の校長辞任を申し出た。両校の責任を持つは、老躯の堪えざるところであるという理由である。

 ここにおいて、かの問題は北中の後任校長に転じたが、理事会の議は時恰も秋山将軍が退職の折柄なるを以て、これに懇請することに一致した。しかし中には陸軍大将に対し、地方官の監督下に立つ田舎の一中学校の校長たらんことを懇請するは非礼である、将軍は断じて受諾せぬであろうと遠慮する者もあった。その中にあって、断固この案を実行すべきを主張した者は、井上要氏であった。かくして井上氏の上京となったのであるが、その著書「北豫中学松山高商楽屋ばなし」の中に次の如く書いてある。

「けれども私は信ずるところあり、理事会の使命を帯びて東京四谷の大将邸に至り、赤裸々に事情を告白して校長の就任を求めたところ、大将の答えは極めて簡単である。
「俺は中学の事は何も知らんが、外に人がなければ校長の名前は出してもよい。日本人は少しく地位を得て退職すれば遊んで恩給で食うことを考える。それはいかん。俺でも役に立てば何でも奉公するよ」
といわれた。沈黙を破れる寡言の雄将の言葉は、極めて要領を得たる教訓ではないか。私は非常に喜んで、
「どうか当分でも校長の名をお貸し下さい。そうして時々学校へ来て生徒と遊んで下さい」
と応答僅かに十分、私は見事に金的を射落とし使命を果たして鼻高々と帰松、これを報告したのである。次いで新学年に入るや、大将は親友新田長次郎氏と相携えて、期を違えず中学に登校したのである。
(将軍が北豫中学校長となった交渉の経路に就いては、新田長次郎氏の談は、聊(いささ)か本分と相異あるも、結果に於いて同じきに依り、井上氏の著書に従う)

 将軍が比較的容易に中学校長就任を受諾したことは、必ずしも意表外のことではないのであって、嘗て将軍の少将時代、帰郷の節、北豫中学校を参観し、生徒に一場の訓話をなしたる後、当時の校長白川福儀氏に対し、中等教育が国家経営上、最も須要なる所以を説き、さらにこう言ったことがある。
「自分も軍職を退いた後は、中等学校の世話でもしてみたいものである。その節は何とか周旋をお願いする」
 右の言葉を後日常に語っていた話に合わせて考えれば、将軍には二つの抱負があったのである。その一つは我が国に於ける教育の中、完備に近きものは小学教育と軍隊教育であり、これに反して最も振るわないのは中学教育であるから、残余奉仕として一つの中学教育に当たり、一模範を示してみようとする抱負である。その二は将軍持論の無休主義の実行である。
 当時これを聞いたものは、一時の戯事に過ぎずと考えたかも知れぬが、後日になって考えれば、必ずしもそうではなかったのである。井上氏が「信ずる処あり」というのは、あるいはこの時の言葉を想起してのことであったのではあるまいか。

 将軍は斯くして北豫中学校長就任を承諾したが、それに就いて学校関係者に宛てて左の書信を出している。

「御書面拝誦
 厳寒の候、各位益々御清康の段、奉慶賀候。
 扨(さて)北豫中学校長後任の件に付、御申越の趣了承。小生は老躯その任に堪えずと存候得共、適当の後任者を得るまで当分の内就任候事は承諾仕候間、可然御取図相願候。何れ二月十五日頃帰松の心組に候間、御承知置相願候
 貴酬迄早々
 一月二十九日                  好古
 井上要様
 石原操様
 長井政光様
 村上半太郎様」

 またこの就任に就いての将軍の心境に関しては、嘗て将軍の副官であった中村歩兵中佐(次喜蔵)氏に宛てた左の将軍の書信が、これを明らかにしている。

「益々御清康奉賀候。
 陳は履歴書の儀に付、種々御配慮御厚意千萬奉謝候。同書は正に落手就任後之手続も万事決了仕候。
 余の宿所は別紙名刺の通に候。
 余の校長たりし北豫中学は久松伯等の援助に依り、小生等同郷知友相計り設立せしものにて、後任者の出来るまで当分の内就任せし次第に有之候。私立の中学故法規上差支無之候事と存候。
 在郷軍人が徒食に安んずるは不可なりと信じ小生は北海道の牧畜と同郷の育英事業に従事致候。是非の判断は世人に任せ候。御序に総監へも別記の次第御伝言相願候。
 先は御体旁一書如此御座候。
  二月二十六日 
 次喜蔵殿


 頓に : 急に、にわかに



※補足1:「その財政上には幾多の難関あり、その経営は中々容易でなかった」
 白川福儀、井上要ら理事から学校の窮状を相談された加藤恒忠は、新田長次郎に支援を依頼した。すると新田が、「郷里の中学のためであれば自分は奮発して義援するが、一商人である自分が久松家に先んじて巨額を出すことは心苦しい感がないわけでもない。久松家よりいくらか低い金額であればいくらでも出資しよう」と言ったため、加藤は直ちに久松定模に懇請した。領内の教育発展に大いに共鳴した久松は一万円の基金のうち六千円を引き受けることを快諾、残りの四千円を新田が出資することとなった。
 その後、加藤は井上らに対し、「学校を経営する責任者が学会などと証する集団であってはならない。多数の集団は常に無責任となるから、理事五名は個人連帯で全責任と全権利を把握し、学会会員は口出ししないことを決議せよ」と要求し、運営体制を改善させたという。


※補足2:「加藤彰廉氏が代わって校長となった頃から、学校は頓に充実整備して」
 加藤彰廉校長が就任後にまず着手したのが学校の移転計画であった。加藤は東京にいる後援者の諒解を得るために理事の井上要ともに上京。そして蔵相官邸で当時の大蔵大臣 勝田主計、秋山好古、加藤恒忠、内藤鳴雪らと協議したところ、「移転の資金がない今、他人の懐を当てにして移転建築に着手するのは早計」と意外なことに全員に反対された。特に好古は三万円の基金が集まった後も「基金の他に充分な建築費と維持費を得た後でなければ着手すべきでない」と頑強に反対。この時ばかりは加藤校長と井上も憤慨し、東京の後援者と絶縁して移転を実行することまで考えたが、結局好古ら後援者の意見に従って集めた基金を返還した。
 井上は後に「北豫中学松山高商楽屋ばなし」の中で「これを考えれば要するに役人軍人と実業人の異なれる心理作用に過ぎぬ。一体人間は智識経験のあることには果断勇敢であるが無智識のことには卑怯臆病なものである。泳ぎを知らぬものは水を恐れ、道を知らないものは歩を運ぶに怯である。秋山大将ほどの剛勇無比の士でも経済のことは無経験不案内である。故に私どもが移転建築費は調達の胸算ありと如何に説明してもチャンと現金を押さえぬ以上、安心する能わず、何処までも学校は商売とは違う、思惑だけで移転は出来ぬと頑張ったのも無理はない。実業人は経験上に於いて一たび見込みが立てば比較的に大胆であり勇敢である。それは水の深浅を見て泳ぎを試み、道の遠近を知って歩を運ぶに異ならぬ。要するに東京側と松山側の意見衝突を来したのは軍人及び役人と実業人の心理を異にせる結果である」と回顧し、さらに取り消した移転予定地が後年になって国鉄用地となって値上がりしたため、用地買収が実現していれば学校は土地成金になり得たと主張している。しかし「双方ともに学校を思うことに於いては固より変るところはなかったのである」とも述べている。