校長の六年間

坂の上の雲 > 秋山好古 > 第七章 > 第一 秋山校長 > 三、校長の六年間


 「当分の間校長の名を出す」といった将軍の校長時代は、実に六年間の長きに及んだが、その間の将軍の恪勤精励は、正に超人的であった。将軍は一日も休んだことなく、また一分の遅刻をしたこともなかった。而も毎日の出勤時間は約二十分前と定まっていたので、将軍の通う沿道では、その登校する将軍の姿を見て、時計の針を正すと言われたほど正確であった。卒業式には、校長たる将軍は生徒の出席を奨励するために、勤惰を考査して精勤証書を与えたが、しかしその精勤の第一位を占むべき者こそ、証書を与える秋山校長その人であったのである。

 将軍は恐ろしい顔をしていたが、しかし将軍の怒った顔を見たものはなかった。また叱られた生徒も一人もいなかった。毎日々々変わりなき慈眼温容で、終始ニコニコと笑みを浮かべながら、校の内外を見回り、時々経歴実話を交えた温かい訓話をした。それは訥弁といった方に近いものであったが、生徒はこれを聞くことをこの上もなく楽しんでいた。また休日などに生徒が将軍の家に訪ねて行くと、将軍は、
「さあ、こっちへ上がれ」
と非常に喜んで迎え、奉天会戦の話などをして、元気に満ちた青年を見ること、それ自身が将軍には無上の喜びであった。校長室は洵に狭隘にして、東南に直射を受け、夏は頗る暑い部屋であった。然るに将軍は、未だ嘗て「暑い」と言ったことがなかった。何時見ても儀容端然として、洋服の釦一つ外れていたことがなかったという。

 将軍が校長になってからは、全校の教職員は急に勉強家となって、欠勤する者がなくなり、従って生徒もまた欠課休学をなす者が著しく減じた。授業料の遅納滞納もこれと共に漸くなくなった。
 将軍は教師の欠勤のために、課業を休校にするということを非常に嫌がり、そういう時には将軍自ら補欠授業に当たり、二時間ぐらいでも喜んでやったので、教務としては大いに助かったしまたこうしたことが教師の欠勤を少なくした原因ともなった。

 将軍は学校の方針をなるべく軍隊式にし、一旦予定を立てた以上は、何処までもその予定通りに実施することを要求し、また力めて質素を奨励した。教師以下の服装は勿論、文房具の類に至るまで贅沢を避け、実用第一のものとし、また生徒から十銭二十銭の会費を徴収することなども、出来るだけ減少し、少しでも父兄の負担を軽からしめることに意を用いた。将軍の躬を以て示した質素に就いては、幾つでも例証を挙げることが出来る。例えば若槻内閣の時、政府の奨励で勤倹週刊ということが行われたが、その週間には、将軍は率先して、早起き、徒歩、禁煙、禁酒を実行し、且つ書信を東京の家族に寄せて、その励行を促したる如き、また一紙片と雖も濫費せず、訓話の原稿などには、古葉書あるいは反古や広告の裏を用いていたるが如きはそれである。

 秋山将軍は、豪放磊落、粗枝大葉、些事に拘泥せざる猛将と考える者もあった。武将としては確かにそうした一面を見せていたこともあったが、中学校長としては全然異なる一面を見せていた。これが噂に聞く猛将秋山大将かと思わせたものが少なくなかった。この事は一見矛盾に似て、決して矛盾ではなかった。要するに将軍は、物の軽重本末を明確に区別したのであった。「助攻方面にはなるべく兵力を節約し、主攻方面に最大限の兵力を用いる」という戦術の原則を、凡ゆる方面に応用したと思われる。
 騎兵実施学校長時代、校庭の雑草の生え茂るままに放棄したのは、戦術、馬術の研究あるいは将兵の訓練を本務とし、また重視したるためであった。併し中学校長としては、校内の乱雑を毫も仮借することなく注意したが、これ生徒の訓練上これを等閑に附するべからずと考えたからである。この事が武将としての将軍の行蔵と、中学校長としての将軍の行蔵とに、多少の逕庭があるように見られる所以である。

 将軍が中学校長として、謹厳精励であったことの例証は、これまたいくらでも挙げることが出来るが、その二三を左に記して見よう。
 将軍は事苟(いやし)くも公務に渉と、それは頗る几帳面であった。例えば中学校長の職務を帯びて旅行する場合などには、厳格にその旨を市長に届出たので、時の市長岩崎一高氏などは却って恐縮するほどであった。
 ある日学校の書記が、至急を要する校用のため、将軍の出勤前にその私邸を訪い、事務上の指示を求めた際、指示半ばにして将軍は時計を見て、
「今はこれで止める。あとは学校で、・・・遅刻してはいかんから」
そして直ちに登校したということである。

 校長室備付の火鉢の炭火は、教室に出る時には必ず炭をかけて置き、またその炭のいけ方も、常に整然たるもので、一度として掻き乱したことはなかった。巻煙草の吸殻とてまたその通りで、必ず火鉢に一隅に正しく列をなしていた。

 校長室の文書、器物等は、必ず所定の位置に整頓し、未だ嘗て乱雑に陥ったことはなかった。ある日所用のため事務室に入ったところ、給仕がその机上に反古をかためて置いたのを見て、
「少年時代からいい習慣を作らなくちゃいかんよ。机の上の品物はちゃんと整頓して置くものぢゃ」
そして事務員に、
「給仕にも紙屑籠を買ってやれ」
と命じた。

 校長室の窓硝子の汚れた際には、必ずこれを拭わしめ、また硝子板に罅(ひび)の生じたときは必ずこれを取り換えしめ、そして言った。
「室内の不整頓は、客を遇する道ではないからね」
 校庭の掃除や、庭樹の手入れなどにも常に留意し、雑木などの乱立することや、雑草の乱茂することを非常に厭うた。そしてポプラは亡国の態があるとて、これを伐採せしめた。

 学校配属将校であった金武省三氏が、ある朝登校の途中で将軍に会い、同行して校門に入ろうとした時、そこに紙片が落ちていた。将軍は何も言わずにその紙片を拾い取り、校内の紙屑箱に投げ入れた。金武氏は後日「あんな恥ずかしいことはなかった」
と語っている。

 将軍は夏服、冬服の外に、別に間服とか真夏服とかを用いたことがなかった。それで如何なる酷暑の候と雖も、上衣を脱したことのなかったことは、前に記した通りであるが、ただ大文字を揮毫する時だけは上衣を脱いでいた。然るにある夏のこと、寒暖計は九十二三度[華氏92度=摂氏33℃]にも昇った日であったが、幼少時の友人武智という人が来て、神社の碑石に神名を書くことを依頼した。将軍は快諾して直ちに筆を執ったが、神社に敬意を表するためか、この時は上衣すら脱せず、端然容儀を整えて書いた。

 夏、人を訪れて、その室に入る際は、必ず室外にて汗を拭い、服装を正してから室内に入っていた。
 さらに将軍が細事に至るまで心を配っていたことは、実に驚くべきものがあった。将軍はよく昼食にパンを用いたが、そのパンの袋は常に自らこれを始末し、もし食い残りのある場合は、袋に包んで必ず盆の上に置いたものである。また宴会に出席した場合、自分の喫し了った煙草の箱や包装紙は、決してそのままに放置することなく、細かに折って袂に入れて持ち帰った。柑橘類を食した場合、その残滓は必ず皮に包んで皿に入れ、食い散して置くようなことはしなかった。

 当時学校に楽隊を有つことが流行し、県下の中学校では殆ど全部これを有つようになったので、北豫中学校でも是非作らねばという意見が起こった。然るに将軍はこれに反対で、
「そんなものはいらない。海軍などでは、何カ月も遠洋航海を続け、海また海で非常に淋しい生活をする場合が多いから、楽隊の必要もあろうが、陸軍などにはそんな必要がないというので、今は軍楽隊を廃している程ぢゃ。学校でもそんなものを作る必要はあるまい」
それで北豫中学校だけは、遂に楽隊を作らなかった。

 中学生は心身の発育最も旺盛な時とて、元気に委せて動もすれば乱暴になる。従って机を壊したり、窓硝子を破ったりすることは少なくない。北中が不良少年養成所なりと嘲られた※補足1ことは、遠き昔のことであって、秋山校長就任以来、風紀頗る厳正になったとはいえ、何分元気の余る少年のこととて、多少の乱暴は免れ難いところである。将軍が校長となった後、夏季休暇に事務員に命じて破損箇所、破損備品を悉く修理せしめた。その後、生徒を集めてただ一言、
「物が壊れては、お互いに困るから気をつけいよ」
 爾来生徒は大いに建物および器物の使用に注意するようになり、破損することなどは殆どなくなった。

 将軍の感化は、独り学校内に止まらず、一般社会にも強い刺激を与えたが、その中でも特に目立ったのは、時間の励行である。これは松山に限ったことではなく、全国大部分と言いたいほど、時間の励行は行われていないのであるが、将軍が校長となり、従って将軍が松山の公私の会合に出るようになってからは、人々相伝え、相警めて、時間の励行を期するようになり、風習一新の動機となったのである。
 将軍は家庭の事情に依り、夫人始め家族一同を東京に残し、松山に於いては中歩行町の旧邸に起居し、親族の助力に依って炊爨を弁じ、全く単身孤独の生活を送っていた。外出の時の外は、常に一室に在って端然読書に耽り、春夏の候は夕刻となれば、必ず後庭に出て、露天の下粗末な籐椅子に倚(よ)って、前に城山を望みながら独酌一本、陶然として自ら楽しみ、また他を顧みることはなかった。そしてその室内屋外共に素朴簡易を極め、床の掛物の外は何等の装飾なく、全然軍隊主義を以て貫いた起居であった。
 井上要氏が屡々将軍に対し、
「御不自由ではありませんか。私共は年をとって妻がいないときは、まず衣食に不便を感じて閉口します。奥様をお呼びになっては如何ですか」
「なに、慣れているから、一人でいても不自由はないのじゃ」
平然として少しも意に介さなかった。

 将軍がただ一つ好きであったものは囲碁であったが、併しそれは下手の横好きといった程度のものであった。井上要氏とは丁度いい相手で、
「井上君一つ打とうか」
同好相対して、時に盛んに鳥鷺を戦わすこともあった。

 将軍には痼疾として脚部に神経痛があって、少々跛行の気味あり、且つ何分高齢のこととて、その点を周囲が心配していたが、将軍も大いに療養に力め、学校の帰途は必ず道後の温泉に入浴し、極めて規則正しい年月を送ったので、次第に軽快に赴き、校長の職務を執る上に何等の支障も来さなかった。

 将軍の日常生活が規則正しかったのと同様に、毎年の生活行事もまた規則正しきものであった。将軍は毎年の夏季休暇には、必ず北海道に行って、新田長次郎氏経営の農場、牧場を視察した。これまた将軍の無休主義によるもので、一年と雖も欠かしたことがなかった。そして学校へ帰るのは何時も新学期の開始前二日ぐらいの余裕を置き、一度として一日も遅れたことはなかった。

 将軍はいつも溢るるばかりの愛情を以て、生徒に接していた。明治神宮の競技に出場すべき選手を決める四国選手権大会を前にして、北豫中学校の選手達は、学校の校庭で猛練習を続けていた。それを将軍はいつもニコニコしながら見ていた。その時選手であった中矢生徒(博)を呼び止めて、
「中矢、お前は東京へ行ったことはあるかい」
「まだ行ったことはありません」
「そうか、東京に行ったら、俺方へ行け」
 将軍は名刺を出して中矢氏に渡した。四国選手権大会に北豫中学校が優勝し、神宮競技に参加することとなって選手たちは上京した。中矢氏は早速青山北町七丁目の将軍の自宅に行くと、夫人は非常に喜んで中矢氏を迎え、信好、勝子、治子、次郎の令息令嬢達と一緒に東京見物に案内した。
 その後中矢氏は中学校を卒業し、東京の日本体操学校に入学したが、夏季休暇に帰省して母校に行き、校長室に将軍を訪ねた。
「御無沙汰を致して相すみません」
「どうぢゃ、学校は勤まるか」
「ハイ、勉強しております」
「陸上競技(けいぎ)はやっておるか」(将軍はケイギと発音していた)
「相変わらずやっております」
「校長は誰だ」
「稲垣三郎閣下です」
「ああ、稲垣か、あれは自分の副官であったことがあるから、よく知っている。紹介してやろう」
 将軍は中矢氏に紹介状を書いてやった。こうした親切は独り中矢氏のみにではなく、誰にでも同じように尽くしたのである。中矢氏はその後一年志願兵の兵役を終えて帰った時、将軍から古軍服を貰ったが、中矢氏は何物にも代え難い精神教育の資料として、今日も大切に保存しているということである。将軍の言行は、そのまま教育の資料であった。

 大正十五年に端なくも、松山高等学校で争議が起こった。それは同年一月、文部大臣の更迭に伴い、松山高等学校創立以来の校長で、生徒の厚き信望を得ていた由比質氏の転任に端を発したのである。由比氏に代わった新校長は、着任早々前校長の方針に反し、弁論部の圧迫、出版部の禁止、寄宿舎自治への干渉等を行い、為めに生徒の憤慨を買ったのである。
 「我らの自由自治の校風を守れ!」と叫び、全校生徒は一致して、敢然抗争に奮起し、何個条かの要求が生徒から校長に提出された。しかし要求は一蹴された。かくて抗争はついに生徒の総同盟休学とまで発展したのである。この争議は、初めは学内運動であったが、漸次日を経るに従い、校外にまで延伸して、遂に社会問題化するまでになった。
 生徒団では争議の真相を市民に告げて、その批判を請うべく、松山政界の長老高須峰造氏を初め市の有志を起こし、遂に大街道新栄座に於いて、「松高ストライキ批判演説会」を開かしめた。しかもこの批判演説会は中途で市民大会に展開し、松山市民会の名に於いて、校長に辞職勧告を決議するに至った。このようにして事態漸く急を告げたので、愛媛県知事高坂昌康氏は熟考の結果、窮余の一策として、北豫中学校長たる将軍に対して、その調停を依頼した。将軍は知事の懇請を引き受け、先ず生徒の代表に会見した。
「校長排斥などを企画して、同盟休校をすることはいかんぢゃないか。それに文部省の方針によると、そういう者は、どしどし退校処分にするというのぢゃ。若い者がつまらぬことで、前途を誤ってはいかん」
 また生徒の父兄たちも集めて、各々その子弟に訓諭して、一日も早く学業に就かしめることを勧めた。しかし生徒の中の強硬派は、将軍の斡旋を圧迫的態度であるとして、中々言うことを聴かなかった。紛争が縺(もつ)れるにつれ、将軍邸の付近には、いつも十人内外の生徒がうろついていて、女中達はために恐れをなして外にも出られぬ有様であった。
 その時、東京や京都から卒業生の総代が多数松山に来て、同盟休校の生徒の相談役になっていたが、将軍は彼らの中の数人と会見した。
「君らは遠方から何しに来たのぢゃ。この騒動を収めに来ているならよいが、騒がせに来ているのなら帰ってもらいたいのぢゃ。生徒で学校の校則に背いた者は退校させるだけぢゃ。一体君等はどうしようというのか」
「学内の自由を得たいのです。学校当局の威圧的強制的態度を好まないのです。なおこの際生徒の犠牲を出すことにも反対です。」
「成程、そうぢゃといって騒ぎをやるのはいかんぢゃないか」
「自由と正義のために戦うのです」
「そういう崇い理想を以て戦う者が、犠牲を厭うとは卑怯ぢゃないか」
「・・・・・・・・・・・・」
「学校の方針は曲げられまいのう。どうしてもその方針がいけんというなら、男らしく皆退校したらどうぢゃ」
「そういうことを言われますと、全校五百の学生が何をするか、判りませんが、よろしゅう御座いますか」
「騒ぐなら、なんぼでも騒げ、俺の学校だけでも千五百人からの生徒がいるそれでも足らにゃ警察もある、松山連隊の兵もいる。なお足らにゃ在郷軍人が一万はいる。それだけいるから何とでもせい。しかし君等も折角騒ぎを収めに来たのぢゃろうから、何とかして収めて帰れ。もし収めることが出来ぬなら、直ぐにさっさと自分たちの学校へ帰れ」
しかし将軍は口で言うように、実力を以て生徒団を弾圧する気はなく、その日県当局を通じて、前途ある青年のために、穏便の処置あるべき希望を、高等学校長に伝えた。斯くして機が熟したので、生徒側代表と学校側代表と、それに調停者たる将軍及び県知事が、県庁に会見したが、犠牲者問題に関して生徒側と学校側とは、激しく意見が対立した。それを将軍の調停により
「学内の自由を認めること」「犠牲者を最小限度にすること」
の条件を以って、さしもに全国の学界を聳動(しょうどう)せしめた松山高等学校の争議も、斯くて終わりを告げた。

 中学校長会議が東京で開かれる時には、将軍はいつも上京して会議に列した。その時は常に謙虚な態度で、少しも大将などという顔をせず会議の場合はよく会議法に従い、また他の校長達に対しても、終始同僚として相接していたので、校長達は、将軍の徳風を敬慕し、その人格に非常な尊敬を感じていた。
 会議は当時日比谷の府立第一中学校(現在の拓務省)で行われたものだが、会議の休憩時には、将軍はよく他の校長達と一緒に運動場に出た。生徒達の投げ合うボールが時に校長達の集まっている方に転がってくると、将軍は走ってそれを拾い、
「おーい」
生徒の方へ投げてやった。
「あれ誰だい?」
「あれは秋山大将だよ」
 あっちこちの生徒の間にささやかれて、そこの生徒たちにも忽ち親しみを持たれたのであった。都下の新聞はこのことを報じて、
「錦を捨てて故郷の中学校長となった秋山大将、三日にして第一中学生を化す」
と言った。将軍は、
「若い学生はあの純真さが尊い。あれはそのまま成長させねばならぬ。私の学校にも千人ほどの学生がいますよ」
とさも心地よげに語っていた。

 大正十五年六月三十日、梅津寺浜に於いて学校の端艇競争が挙行されたが、終わって生徒一同汽車に乗らんとした時、たまたま大雨沛然(はいぜん)として至ったので、生徒は狼狽し、先を争って乗車せんとした。その時三年生の一人が誤って線路に墜落し、不幸車輪に触れて重傷を負い、数日後遂に死亡した。将軍は深くこれを遺憾として、親しくその家を弔問し、また葬儀に列し、弔慰金百円を贈った。
 この椿事(ちんじ)が責任問題として世評喧しくなった時、将軍は新聞記者等に対して、
「全く人浪を喰ったのである。誰が押したというわけではない。洵に遺憾極まることであるが、責任は全く校長にある」
と言って、他を言うの遑(いとま)なからしめた。職員に対しては、
「この旅の事は洵に遺憾至極である。再度斯かる不祥事なきよう、御互いに慎まねばならぬ。ただし責任は全く校長がとるであろう」
と言って、一言も職員を叱責するようなことはなかった。


 将軍の校長在職は、何時しか二年となり、三年となり、また四年と続き、校長と生徒とは益々親密となり、また学校の信用も益々高まった。しかしそれと共に将軍の辞意は漸く強められて行った。理事井上要氏に対して、
「当分の間だけ校長の名を出すという約束だったぢゃないか。もう罷めてもよかろう、早く後任を定めてくれ」
「何時御罷め下されてもいいのですが、後任だけは是非御選定願います。」
 この問答が何時も繰り返され、また何時もそれきりになっていた。然るに昭和三年の夏季休暇に、図らずも将軍の辞職問題が起こった。
 将軍は毎年の例によって北海道に行き、新田氏の農場、牧場を視察したが、その不在中、北中の二三の不良生徒が何か乱暴をして警察の訊問を受けた事件が起こった。井上理事は直ちにこの由を将軍に手紙で報告すると、将軍は大いに驚き、北海道から松山に急遽帰って来た。そしてその生徒に対しては、それぞれの処置をした。
 さてその処置を完了するや、将軍は斯くの如き事件を惹起せるは、一に校長の責任であるとて、井上理事に対して左の辞表を提出した。


  辞職願
                    好古儀
 老軀難堪重責ニ付辭職致度此段相願候也
 昭和参年八月卅日

            北豫中學校長 秋山好古 印
 北豫中學會
 理事 井上要殿


 井上理事を始め理事一同は大いに驚き、事件は僅かに二三生徒の品行問題に過ぎず、何れの学校にもあることで、特に校長の引責を要するほどの大きな問題でもないという理由を以て、理事一同は極力その留任を求めた。しかし将軍の辞意は頗る強硬で、飽くまでも辞職を願いたいという。そこで遂に知事 市村慶三など、元来校長を監督すべき位置に在る人々までが打揃って、低頭平身偏に辞表の撤回を懇望したので、将軍もその情義にほだされ、遂に漸く辞表を撤回して、留任を承諾したのであった。こうしてこの時は辞職するに至らなかったが、将軍が古希を迎えた昭和四年の新年、ある機会に「俺ももう七十になったから、校長を罷めたい」と言った一言が偶然新聞には「秋山中学校長いよいよ辞任す」と書き出されたため、生徒や父兄は大いに心配して騒ぎ出すし、また世間でも一問題となった。そこで井上理事は、三月の卒業式に臨んだ時、突然演壇に立ち、
「諸君は秋山校長が罷められると云うて、大いに心配しているそうであるが、校長先生は非常に責任を重んずる人である。先生に代わるべき立派な後任のない以上、断じて諸君を見捨てることはない。諸君安心せよ」
と言った。式終わり、式場を退くと、将軍は井上氏を捕え、
「君があんな演説をすると、当分罷められないぢゃないか」
と言い、相見て共に大笑した。

 しかしながら無休主義の将軍も、寄る年波には克てず、且つ痼疾(こしつ)の神経痛が漸く劇くなってきた。無欠勤の六年を難なく越え去り越え来ったのであるが、今は遂にその登校にも堪えられぬ日もあった。脚の疼痛と共に将軍の辞意はいよいよ固くなった。
 ちょうどその頃、陸軍大臣であった白川大将(義則)は、頻りに将軍の健康を気遣い、井上理事に対し、口に或いは書面に、将軍にこの上にも長く留任を求めるは、一種の老人虐待にして、老将軍に対する道ではないと忠告してきた。白川大将の将軍に於ける誼は子弟の如く、その情は父子のそれにも似たものがあった。その一書は左の如くであった。

拝啓

益御清穆奉賀候
陳は先般帰松の節は御鄭重なる御歓迎を辱ふし実に難有く厚く御礼申上候
秋山将軍は御承知の通り退隠の希望切なる次第に候間可然御配慮の程小生よりも御依頼申上候
右御礼旁如此く御座候 敬具
昭和四年十月三十日
                    白川義則
井上要様

将軍の中学校長就任に就いては、その当初より白川大将が非常な心配をしていたのであって、就任問題の起こった時、同大将は関東軍司令官として満州にいたが、この報を聞くや、村上正氏に宛てて左の要旨の書信を寄せた。
「秋山将軍が今度北豫中学校長に就任するそうであるが、郷里というものは中々五月蠅いものであるから、うまくゆけばいいが、将軍の晩年を誤らせてはならぬから、拒絶の出来るものならば拒絶した方がいいし、拒絶出来ないものならば、誰か有力者の後援を必要とする。自分は柳原正之氏(当時伊予日々新報社長)に頼むから、君も誰か適当の人に頼んで頂きたい」
 そこで村上氏は、松山市長岩崎一高氏に、手紙を以て依頼したのであった。なおこの時、南中将(当時陸軍士官学校長)も、将軍のことを心配し、村上氏に対し、
「秋山さんが、松山の中学校長に就任されるそうぢゃないか。君等は行って、大いに助けてやらにゃいかん」
と言ったのであるが、将軍より薫陶を受けた人々は、皆将軍の身の上を心から心配していたのである。さればこそ白川大将が井上要氏に右の書信を寄せたのである。
 斯くては理事会としても、将軍の辞職を認めざるを得なくなった。ただ後任者の求め難にき当惑していたところ、恰(あたかも)もよし、陸軍中将鳥谷章氏が現役を退いて、松山に帰住することとなった。そこで将軍から鳥谷中将に北豫中学校長の後任を話して、昭和五年四月九日を以て、将軍は校長の椅子を去ったのである。
 その在職は正に六年三ヶ月に及び、将軍としては国家に対する最後の御奉公であり、郷里に対する最大の奉仕であった。そしてその学校と郷党とに与えた教化と感化とは絶大なるものであった。
 なお将軍は、退職後も依然松山に在住し、学校の理事として留まるということになっていた。


 丁抹 : デンマーク
 訥弁 : なめらかでない話し方
 聳動 : 驚かせ動揺させること 
 沛然 : 雨が勢いよく降るようす
 椿事 : =珍事
 痼疾 : 持病



※稲垣三郎(1870〜1953):陸士二期、陸大十三期卒(恩賜)。妻は同郷の落合豊三郎の娘。日清戦争では秋山好古の副官を務めた。その後は駐英武官、騎兵第一旅団長、ウラジオ派遣軍参謀長、国連陸軍代表などを歴任。大正12年に中将で予備役となった。



※補足1:「北中が不良少年養成所なりと嘲られた」
  明治34年1月、創業者で初代校長の城哲三が2,3人の教師と対立してこれを解職。その後、解職された教師達が生徒を集めて校長を弾劾したため、一部生徒が暴徒化したことがあった。井上要は著書「北豫中学松山高商 楽屋ばなし」の中でこの時の様子を「その頃の生徒は近県より来学せるもの多く、年齢等も区々にして中には衣肝に至り袖腕に至る堂々肩を怒らして風を切りながら横行闊歩し、立派な壮士と見るべきものも少なくない。従ってこの学校は不良少年の集会所なりと悪口するものさえあるときであるから、生徒は暴徒化して宛然たる今頃の直接行動そのままで、あるものはピストルを携え、あるものは刀剣を提げ、数十名が大挙して深夜城氏の居宅を襲撃した」と記している。
 その後、城に代わって白川福儀が校長となった。学校の財政を立て直すために県や郡市に補助を願い出た際、ある役人から「北豫中学は不良少年の養成所である。この様な処に補助することは思いもよらない」と叱責された白川は大いに憤慨し、「不良少年だからこそ益々教育の必要があるわけではないか。野獣を放りっぱなしとすれば、その害は鶏豚牛馬に倍することは勿論である」と反論したという。