東京にて病臥

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 将軍は校長を辞した昭和五年の七月十日すぎ、毎年の例に依り、北海道帯広にある新田長次郎氏経営の牧場に馬を見るべく、松山を出た。途中大阪新田氏の家に立ち寄って一泊し、翌日東京に向かい、渋谷町青葉に在る令息信好氏の宅に着いた。
 然るに持病の神経痛のため左足趾より下腿外側にかけての疼痛が強くなり、殊に一夜余りの暑さに、左足を扇風機に吹かれたまま寝て以来は、一層この疼痛が増して来た。しかし将軍は医師の診療も受けず、そのままにしていたところ、八月二日の午後一時頃、突然医学博士小林賛治氏が見舞に来た。
 小林氏はこの朝、先輩大阪市立市民病院副院長医学博士土居利三郎氏から、夫人健子の代筆の書信を受けたのであった。それによれば、秋山大将は脚部の疼痛のために悩んでいるが、平素丈夫な体質なるため、病気の経験が殆どなく、従って今度も神経痛だぐらいな考えで、割合に無関心のようだから、まず小林氏に行って診て貰いたいというのであった。健子夫人は将軍の次女である。
 そこで小林博士が見舞に来たのであるが、その時将軍は、日当たりのいい縁側に、藤椅子に腰かけて新聞を見ていた。小林博士は早速診察に取りかかり、まず既往症について尋ねたが、近衛師団長時代に軽い脳溢血で入院したほか、これぞという病気はない、ただ十数年来、脚の神経痛が痼疾になっており、最近特に疼痛が激しいが、老齢のために弱ったからであろう、と将軍は答えた。
 小林博士は聴診器を執って一診したところ、胸部と腹部とには何等の著変なく、左下肢に於ける動脈の脈拍は、一般に小さく弱く触れるが、皮膚には足趾間に汗疱が相当広がっている以外には、変色などはない。右下肢の脈拍も勿論弱く触れるが、左下肢ほどのことはない。そこで尿を持ち帰って検査したところ、果たして糖の存在を証明したのである。
 ここで小林博士の診断に依れば、この病気は十数年前より既に存していて、右下肢の方はそのまま進行せずに留まって、左下肢のみが悪いように見えてきたのであろうという。小林博士は早速大阪の土居博士に宛てて返事した。
「大将の御病気は、糖尿病並びに間歇性跛行症(脱疽の初期)と診断する」
 一方また将軍には、これも書信を以て、食餌の養生や、局所の姑息的処置を告げ、その夜かねての予定の如く樺太旅行に出発したのである。旅行約三週間、八月二十四日の朝帰京したが、将軍をその後誰か適当な医師が診療しているとのみ考え、そのままにしていると、二ヶ月後の十月三日に、大阪の土居夫人から再度の書信を受けたが、、その要旨は、
「・・・その後、父の足趾の疼痛が激しいそうだから、往って診て頂きたい。父は平素より健康なるがため、今もなお医者にもかからざる由、ただ勧める人あって按摩にもませているらしい」
 小林博士は将軍の病気に対する無頓着に驚いた。実際この間に於ける将軍は無頓着極まるものではあったが、しかしその無頓着の中に、将軍の徹底した人生観を見ることが出来る。ちょうどその八月の一日、同郷の老友和田昌訓氏が親しく将軍を病床に見舞うた。
「御病気ぢゃとと言うが、どうぞな」
「うむ、足が痛うていかん。一体何ぢゃろうか」
「神経痛ぢゃろう。まあマッサージでもやったらどうかな」
「もう、あしも逝ってもええわい」
「逝ってもええと言うても、そないに死ぬ程のことでもないがな」
「いいや、どうもいかんらしい。わしは親父よりゃ長生きしたから、もういつ逝ってもええのぢゃ」
「あなたの親父さんは何歳ぢゃったかな」
「親父は六十九ぢゃったが、俺はもう七十以上になる。いつ死んでもええがい」
 こうした気持ちであったから、医者にも診せずに放っておいたのであろうが、とにかく小林博士はとりあえず、その後移転した赤坂丹後町の将軍邸を訪ねた。信好氏は三菱銀行小樽支店に転じて、既に彼の地に赴任して不在、邸には将軍夫妻と慶応大学在学中の令息次郎氏の三人暮らしであった。
 博士が診察すると、左足趾第三、四、五が最も痛むらしく、特に夜分などは激しくて、ために睡眠出来ぬくらいであるし、室内の歩行もやや困難らしい、いよいよ脱疽が始まるらしい状態なのである。一体この病気の原因については、まだ学説が一定していないが、将軍の場合は血管内膜が硬変し、閉塞して血流を不十分ならしめることによって、漸次壊疽に陥り、血管の交感神経の興奮により疼痛があるものと博士は診断したのである。そしてこの特質性脱疽に対する治療法に就いて、博士は次のように述べている。
「第一に交感神経の外科的切除である。これも股動脈のところで行う場合もあり、腹部で神経節を切除したり、また腹膜外よりこれを行う方法もある。斯くして一時的には疼痛を去らしめることは出来る。しかし大将の場合に於いては糖尿病と御老体ということがあり、従って傷口の治癒ということが案じられる。あるいはレントゲン深部治療ということが最近唱えられているが、疼痛は去っても閉塞した血管の流をよくするということは、なかなか難しいと思われる。というのは血管の痙攣で血流が妨げられたというよりは、血管壁の硬変が主と思われるから、これを拡張するということは、交感神経切除でも、レントゲン治療でも困難だろうと思われるからである。最後に脚部切断ということであるが、よし切断して一時疼痛はなくなっても、また切断端より壊疽が始まったり、前述の如く糖尿病と老齢なるが故に、万一不良なるべき予後のことを考えると、この思い切った方法ということも、更に慎重に考慮してからでないとお話し兼ねる。而してその他はすべて姑息的の処置のみである。」
 しかし今や病勢がどんどん進行するらしいので、小林博士としては姑息的な処置を以て晏如(あんじょ)たることは出来ぬと考え、早速大阪の土居博士に宛てて手紙を書いた。その文意は、
「御病人を大阪に於いて、貴下自ら預かって治療に当たって下さるや、または軍医学校か赤十字本院か、それとも然るべき大病院に入院してもらうようにするか、いずれとも御指示頂きたい」
 そしてその返事を待つ間は、汗疱に就いては硼酸(ほうさん)亜鉛軟膏を塗布し、疼痛部にはリバノールガーゼをつけて温罨法(おんあんぽう)をしていた。また糖尿病に対しては、厳格な食餌療法は病院外では出来ぬことでもあるし、且つ老齢のこととて却って害はありはせぬかとの留意から、なるべく含水素分を制限するぐらいのことで留めておいた。しかし小林博士はこの処置について、後日自らこう言っている。
「今になってはいずれも甚だ不徹底な処置で、土居博士の教示を俟たずして、然るべき病院にお入れしさえしておけばよかったし、従って自責の念はもっと軽くて済んだと思う。そんなにも速く変化が進行するとは考えなかったのが、後日取り返しのつかぬことになった基ではあるまいかと、私は自らの不覚を責めるばかりである。私の決心を最後まで鈍らせたのは、ご老体なることと、血管の変化の相当進行せることと、糖尿病という合併症があったことである」
 この烈しき疼痛の裏にも、将軍は死生を超越して悠々たるものであった。生に対する何等の未練も執着もなく、小林博士に幾度か言った。
「俺は老齢だ、世間に用事のない体だ。今年三月に北豫中学校長も退いたから、この世で為すべきことは皆為し果てた体だ。俺のうちの若い者も、それぞれ大きくなって、各々片付き、大体その方も心配もない。いつ死んでも構わないから、君達も俺の体については、余りに案じないでくれたまえ」
 脱疽の始まるときの疼痛は、実に筆舌に絶する烈しいものなのである。それを将軍はぢーっとたえて、一言も苦痛を訴えなかった。ラジオで野球リーグの戦況などを聴いては、若い気持ちになって、この苦痛を忘れんとしていた。しかし局所の疼痛は、次第にその烈しさを増して来て、夜もろくろく熟睡のできぬことが続いた。流石の将軍も遂に、
「この痛みさえ去れば、脚の一本はなくてもいい」
と言うに至った。よくよくのことであったろうと思う。そのうちに左の第三足趾が急に変色してきた。しかし趾の根元で、デマルキーレン(分界)するかに見えた時に大阪の土居博士から小林博士に、陸軍軍医学校に入院させてくれとの依頼状が届いた。もうどうしても入院である。
 その翌日朝、小林博士は将軍夫人と共に軍医学校に行き、石井、細見、原田の諸軍医と色々話し合い、病室の交渉も済んだので、同日午後将軍を入院せしめることになった。時は八月十五日、将軍を乗せた自動車は赤坂丹後町を出でて、牛込戸山町の陸軍軍医学校へと向かったが、、これぞ再び生きて還ることなき最後の出邸であり、車窓に去来した東京の街は、図らずもあの世へ続く道とはなったのであった。

 間歇性跛行症 : 足の血管の動脈硬化によって血行が悪くなり、痛みや違和感で歩行困難になる。
 温罨法 : 蒸した布などで患部を暖める治療法
 和田昌訓 : 戒田のおいさんの親戚