名将遂に逝く

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 かつては医療を嫌い、如何なる病気をも我慢で推し通した将軍も、この入院だけは素直であった。
 「俺はもう為すべきはなしたし、親父よりも長生きしたから、何時死んでもええが、入院した以上は、医者の言うことを聞くよ」
 かつての将軍に聞かれぬ言葉を、近親者にささやいた。軍医学校には外科に細見軍医正(憲)、糖尿病に原田軍医正(豊)の権威あって、専心に手当てして治療を続けたが、そのうちに大阪から土居博士も上京し、一同で治療法に就いて篤(とく)と研究したのである。
 その結果、糖尿病の方はやはりあまり厳格に食餌を制限するは却って精神的にも気力を失うことにもなるので出来るだけその点は緩和して、当分様子を観察しつつ姑息的処置を施し、万一止むを得ざる時は、最後的手段として脚部の切断を断行することとした。そして土居博士は「それらの適宜処置は、総て教官諸君に一任するから、宜しく頼む」と言い残して、一応大阪に帰った。
 将軍はまず酒と煙草とを禁ぜられた。酒を愛好したことは言を俟たぬが、煙草も将軍の大の嗜好物であった。その二つを医師の命令で、全然廃してしまった。また糖尿病に対する血糖量の試験のために、時に食餌の制限を受けた。これも苦しいものであった。けれども将軍は従順医師の命令に服し、一言も訴えるところなかった。そして言っていた。
「老人、特に社会的に働けぬようになった者は、さっさと要職より退いて、社会の進歩を妨げぬように後進に道を拓かねばならぬ。これが社会の新陳代謝だ。もっとも自分の体が老いて役に立たぬのは、この新陳代謝機能が衰えてしまって、生活力を失わんとしているからで、こうなったら如何にしても再生ということは難しい。君たちがこの老体を元にしようと努力しても無理だと思う。せめて疼痛だけでもなくしてくれたら、どんなに嬉しいだろう。ただそれだけを望む」
 将軍入院の報一度伝えらるるや、見舞客は踵(くびき)を接して押し寄せた。将軍は苦悩の間にも出来るだけその人々に会い、既に死を覚悟してか、色々と後事を託し、また注意を与えた。
 将軍の朝鮮駐剳軍司令官時代の副官古城大佐(胤秀)の見舞うや、将軍は、
「俺も七十二になったからねえ、この三月までは、育英事業に御奉公した。人間は遊んで無為に暮らしてはいかん」
 大佐が静かに病室を辞そうとした時、将軍は突然大声で、
「上京したお届を陸軍省へ頼む。また宮内省には非公式にね」
 病勢日に革まりつつある重体の中にも、責任感がなおその念頭から離れずにいたのである。また片岡騎兵少佐(董)が小林医学博士に伴われて、二回ほど見舞ったことがあったが、その時の話を小林博士は左の如く書いている。
「この時我が騎兵の将来については、軍馬の改良と増殖、日進月歩の文明を応用し採用すること、実戦に当たって宣伝の力の大なることなどを話されたことがあった。私は軍事に就いては門外漢なれど、大将のお言葉のうちには、国防なるものは、専門戦闘機関の外形的の整備に依ってのみ安意すべきに非ず、一国の戦闘力は国家総動員の力に依って評量せらるべきものなる限り、学術の進歩発達を無視ないし除外して考慮することは危険であるというような意味にもとれたのである」
 また騎兵第一旅団長梅崎少将(延太郎)と陸軍騎兵学校長柳川少将(平助)とが同道して見舞うた時、柳川少将が日露戦争中、繁駕機関砲小隊長として、将軍の麾下に於いて参戦したことを想起し、
「日露戦役では我が騎兵旅団が機関砲を持って居ったので勝ったのぢゃ。これからも新兵器など、始終よく気を付けて居らにゃいかんよ。それから騎兵は機動力が大事だが、それがためには馬が大事だよ。それで俺も北海道で馬のことをやってみたのぢゃ。騎兵はどんどん前に進めばよいのぢゃ。補給などのことを言って止まってはいけない。始終前に前にと進めばよいのぢゃ。内地の地形はどうも騎兵の訓練には具合がよくない。朝鮮か満州に一個旅団か二旅団出さにゃいかんよ。外国が何とか言ったら、返事だけしておけばよいのだ。騎兵の将校は国際上のことも注意して居らにゃいけないよ」
 苦痛については曖気(おくび)にも出さず、ただ騎兵のことのみを言うのであった。
 また服部中将(真彦)が病床に見舞うと、
 「わしも齢七十を越えたよ。退職後老齢でも、どうにか中学校長の職を務め得たよ。何でもよい、如何に微小でも、お国のためになる仕事をせにゃいかんよ」
と言った。
 ついで安藤騎兵大佐(直康)の見舞うた時には、騎兵実施学校長当時、部下に在って各科の研究に従事せし人々の消息に及び、往時を追想して左の如く語った。
「学校当時企画したことの由来を、わしの存命中に記録して残しておきたいと思うているが、お前は最も多く関係して熟知して居るから、これを取り纏めてくれ。騎兵監にも話しておく」
 ああしかし、騎兵監に話す機会はなかった。その後一週間にして大佐と将軍とは、幽明の境を異にするに至ったのであった。

 さて将軍の病勢は、その後少しも衰えなかった。尤も糖尿病の方は、左程重体というほどでもなかったが、脱疽の方は日に日に悪化し、もはや脚部切断の他なしと、軍医達が決意した。それで外科学会の権威帝大教授藍田広重博士に一応判断を乞うことにし、十月二十八日午後二時に、同博士の診察を受けたのであるが、同博士の診断によれば、
「理論としては切断以外の方法はないのであるが、何分ご高齢なるが故に、無理にはお勧めは出来ません。要は大将ご自身と周囲の方の御決意に拠るのみであります」
 この言葉を白川大将も傍らで聞いていた。そこで細見、原田両軍医よりその旨を将軍に告げると、将軍は既に決意していたので、すぐに承諾した。
 翌日、久松伯爵、白川大将、鶴田軍医総監(禎次郎)秋山軍医総監(錬造)などにも相談し、また多美子夫人をはじめ近親の人々の同意を得、大阪の土居博士にも通知して上京を請い、いよいよ十一月一日午前十一時半頃、十分の準備の下に左脚切断の手術は細見軍医正執刀の下に行われることになった。
 鶴田、秋山両軍医総監、一木陸軍軍医学校長(儀一)、土居博士、小林博士、将軍令息次郎氏等が立会の中に、細見軍医正は刀を執って将軍の痛める左脚に当てれば、脚は大腿中央部に於いて見事に切断された。そしてその後の処置は極めて円滑に行われた。
 手術が終わり麻酔から覚めると、将軍はニコニコして言った。
「やあ、御苦労でした。これですっぱりした。脚が一本なくとも、仕事は出来るそうぢゃからな」
 この夜将軍は大きな鼾声を発して熟睡した。為すべきことを為したという安心もあろう、また鎮静剤の効果もあろう、更にまた今まで痛み通した患部が除去されたためも勿論あろう。将軍にとっては近来にない快い一夜であった。
 然るに快眠は僅かに一夜、翌二日になると、切断端に於いて猛烈な痛みが起こり、熱が高くなってきたのである。遂に縫い合わせを解いて見ると、傷口は大体よく癒着していたが、一ヶ所静脈炎を起こしていたし、また腹部にも一ヶ所炎症の及んでいるのが認められた。
 万事休す!脱疽菌は既に上部に侵入していたのである。

 三日に村上正氏が病室に入ると、昏睡状態からふと目を開けた将軍は、村上氏の顔を見るなり、
「うー、騎兵は出たそうぢゃね」
「何ですか?」
将軍は今のは夢と気付いたかの如く、
「うー、そうか」
 日露戦争当時を夢見ていたらしい。
 二日、三日、体温は三十九度を下らず、ともすれば昏睡状態に陥った。
 四日になった。病勢は悪化の唯一路を辿るばかりであった。
 白川大将が病床の側に立った時、将軍の眼には大将がよく映らなかったらしい。そして頻りに譫言を続けていた。
「奉天の右翼へ、・・・・・・」
「鉄嶺へ前進!・・・・・・」
「・・・ ・・・ ・・・ ・・・」
 総てが日露戦争の時のことのみであった。ああ秋山騎兵旅団難戦苦闘の印象は、将軍の脳裏には、死の直前までも消えることはなかったのである。
 昏睡からふと覚めた時、長女塚原與志子夫人が、
「お父さん、何かお申し置きになることはありませんか」
 将軍はただ一言、
「ない」
 次女土居健子夫人が、
「これから信好の所へ手紙を出しますが、何か用事はありませんか」
 将軍は言下に、
「ない」
 多美子夫人が将軍の顔をのぞくと、将軍は、
「俺はまだ欲が深すぎたよ」
 意味は解らぬが、多分生き延びるために手術までしたことを言ったのであろう。

 再び昏睡状態に入った。譫言がまた始まった。しかし声は刻々細り行き、医師は臨終の近きを告げた。
 酒の好きであった将軍のために、末期の水の代わりに紅茶にコニャックを混じたものを用いたが、将軍は無意識にそれを吸うかの如くに感じられた。枕元には家族近親が声を呑んで見守っている。鈍い電燈が血の気の乏しい将軍の蒼い顔を静かに照らしている。
 折柄、将軍危篤の報を聞いて駆け付けた士官学校同期生の本郷大将(房太郎)が、耳に口を寄せて、
「秋山、本郷が判るか、馬から落ちるな」
と言うと、将軍は目をぱっちり開いて微笑した。そしてはっきりと、
「本郷か、少し起こしてくれ」
と言った。起こせば良くないことは判っている。
 多美子夫人を始め家族の人たちは、一刻千秋の思いで、嫡嗣信好氏の帰京を待ったが、医者より到底間に合わないと言い渡された。
 では本人の望みのままにと、本郷大将と二男次郎氏とが前後より抱え起こしたが、暫しの後疲れるだろうからとて再び寝かすと、そのまま永き眠りに入ったのである。
 鉛のような重苦しい気が、さっと室内に満ちたと思うとき、看とれる人々の歔欷(きょき)は、あたりの空気を繊細(せんさい)に震わせた。
 昭和五年十一月四日午前七時十分、一代の名将秋山好古は、その七十二年の無休の闘いをついに終えたのである。

 切断された左脚をよく解剖して見ると、動脈は二ヶ所に於いて全く閉鎖され、静脈もまたトロンボーを起こしていて、殆ど全く血統は止まっていたのである。これでは脚が腐蝕せざるを得ないわけであった。

 これより先、将軍危篤の報一度天聴に達するや、畏(かしこき)き辺りに於かせられては、将軍の国家に対する勲功を嘉せられ、十一月四日、旭日桐花大綬章を賜った。


 歔欷 : すすり泣くこと
 畏き辺り : 宮中のこと