郷党の大先輩

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 将軍として秋山好古の偉大さと、校長として秋山好古の高邁さとは既に述べた通りである。では、将軍としての剣を解き、校長としての服を脱いだ、一平民としての秋山好古は如何なる人物であったであろう。
 十一歳で明治維新を迎えた秋山将軍は、時代に於ける先覚者たる時運に恵まれていた。将軍の先輩は幕府時代の後殿者であったが、将軍は明治新時代の先駆者であった。
 明治十年頃までに将軍の郷里松山から、東京または大阪に遊学したる青少年の数は、当時士族階級の経済的窮迫と、交通の不便とが相俟って、十指を以て数うる程度であった。その時に際し将軍は夙に大阪に出でて官立師範学校を卒業し、尋で陸軍士官学校に入り、更に陸軍大学校を卒えて将来の栄達を約束されたのみならず、旧藩主久松伯の輔導役として仏蘭西に留学したることとて、郷党に於けるその名声は誠に嘖々たるもので、松山の不老から郷党の傑物として、松山の子弟からは郷党の先輩として、尊敬の中心と崇拝の焦点であった。
 将軍が至誠愛国の人であったことは軍人としての長い経歴がこれを物語っている。そして将軍の報国心はただ単純なる感激によるものでなく、人間は健康の許す限り国家に報じ社会に尽くすことが、その本来の義務であると云う堅い信念によるものであった。だから将軍は決して部下の後輩に対し、お念仏的に口先ばかりの忠君愛国を説くことなく、不言実行常に身を以て範を示すのであった。

 久松伯爵家の東京に於ける育英施設として、本郷真砂町に常盤会と称する学生の寄宿舎があった。東京に遊学する旧藩領子弟の監督指導にあたったもので、常に三十人位の学生を収容して居った。今日社会の各方面に活躍せる松山藩人の大部分はこの寄宿舎の門を潜った者である。初め旧藩士内藤素行(俳号鳴雪)氏が監督の任に当たっていたが、老齢任を辞するに及び、当時騎兵監であった将軍がその後を継ぐこととなった。
 左は将軍が北清駐屯時代に内藤氏へ宛てた書簡で、公務多端の間に於いても郷党のために如何に意を用いたかが判る。

 前略益々御清廉奉賀候。小生儀不相変頑健相暮し居候間、御安意願候。常盤会同郷会等の儀に就いては、不相変御厄介の事と奉遙察候。小生は久しく他郷に居り寸毫も微力を尽くすを得ず、遺憾千万の至、聊か微意を表する為、別封金員御送付申候間、御寄付方御取計相願候。小生も北清に於ける戦後の始末と将来の経営に付、要務を双肩に負担し御承知の無鉄砲にて複雑なる百事を処理すること故、過失のみにて相暮らし居候。しかし最早一二ヶ月にて略整理を了り、前途に於ける事業も緒に就き可申と存候。余は従来の主義として黙して実利実益を挙げ名利に走らず、多少郷里邦家のため裨益を挙げ後進者のために不言の内に実例を示さんものと常に希望致し居候。郷国の後進者が内地の孤島に蟄居して海外に向かって雄飛せざれば前途の事業は毫も為し能はざれば、余は公務の余暇に外邦の事情を研究致居候。将来後進者の為に多少の利益を挙ぐるの一端とならば、余が不在中何事も郷国の為に尽くさざりし責を免るるを得んと存居候。先は要用迄。草々。
 五月十一日
                       好古
 素行老大兄

 将軍は多忙なる軍職の傍ら最も熱心にその任に当たり、寄宿舎に於ける種々の会合には万障を排して勉めて出席し、郷党子弟の指導誘掖に力を注いだのである。将軍は喋ることは極めて下手であった。殊に演説の如きは「エー、エー」と、間隙の長い途切れ途切れの咄弁の尤なるものであった。しかしそのぽつりぽつりと肺腑の底から搾り出すような言葉は、切実と言おうか、熱烈と言おうか、聞く者の心の奥を強く貫く趣があった。そしてその説くことは決して高遠の理想でも無く、誇張の壮語でも無く、自ら実践躬行し来ったところであった。要するに将軍は口の人でも無く、また腕の人でも無く、どこまでも心の人であった。

 左は将軍が常盤会監督に就任の辞として、舎生に与えた訓諭である。
 ○進取力と忍耐力とは修学上の二大要素なり
 進取力と忍耐力とは修学上の二大要素にして、且つ成功の基礎なり。故に気力を旺盛にし、勇往邁進、如何なる困難に会するも毫も屈する所なく、寧ろ難事に遭遇するを以て、一世の快事となさざる可からず。我が同郷学生はこの点に於いて極めて深き注意を要する。
 ○品性の修養には特に重きを置かざる可からず
 品性の修養には特に重きを置かざる可からず。従来往々学生にして志操堅固確実ならず、あるいは徳義を紊(みだ)り、あるいは酒色に耽(ふけ)り、中道にして挫折せし者少なしとせず、豈戒めざるべけんや。
 ○風紀を厳守し秩序を保持すべし
 風紀を厳守し、秩序を保持することは、学生の最も注意すべき要件とす、質素固より貴ぶべしと雖も、妄りに服装の端正を乱し、敬礼の誠実を書くが如きは、事小に似て小に非ず、深く戒めざるべからす。
 ○校則並びに校紀は確守するを要す
 諸学校に於ける校則並びに校紀は確守するを要す、余は従来諸学校に於ける学生の紛擾(ふんじょう)を見る毎に、その主因は学生の怠慢心より生ずるもの多きを見て、心窃かに痛歎せしこと屡次なりき、将来特に慎まざるべけんや。
 ○自ら進みて自ら学ぶの勇気なかるべからず
 教育の方法の完全無欠なることは、既往は固より将来と雖も期すること難し。故に学生は自ら進みて自ら学ぶの勇気なかるべからず、単に教師の講義のみを以って能事終れりとするが如きは、誤れるの大なるものなり。
 ○青年時代に於ける修学上の成績は将来至大の関係を有す
 青年時代に於ける修学上の成績は、自己の将来に至大の関係を有するものとす。もし我が同郷青年の基礎的教育不完全なる時は、将来我が同郷人は人後に碌々たるの外なかるべし。
 ○学術研究は極めて密ならざるべからず
 学術の研究は、極めて緻密ならざるべからず。往々古今の英雄中、大胆にして細事に関せざるものを賞賛する者あれども、英雄なるものは細事を知らざるに非ず、ただ知って言わざること多し。故に緊急の場合には、言細事に及んで寸毫の過失もこれを矯正するを常とす。深く慎まざるべからず。
 ○協同一致の精神を拡張すべし
 現時の情勢に於いて必要なるものは、協同一致の精神を拡張するにあり、我が同郷人士は協同の精神乏しきがため、郷友間に屡々無用の争議を為し、徒らに貴重の時日と金銭とを浪費し、却って郷国の進歩発達を妨げし例少なしとせず。我が同郷後進の輩は、宜しく眼界を遠大にし、何れかの職業を問わず、協同一致互いにこれを助成して、既往に於ける失態を再びする勿らんことを切に望む所なり。
 ○微力を尽くして後進の発達を奨励する所以
 今や我国は世界強国の班に列すと雖も、数千年砥砺(しれい)せし愛国心に依りて国家を維持するに過ぎず、而して文明に進歩発達は、欧米諸国に及ばざる遠しとす。殊に亜細亜諸国中完全にその独立を維持するものは、我が日本帝国あるのみ。この至難の状態にありて、今後益々世界の強国と激甚なる富強の競争に従事するは、実に男児一生の快事ならずや。然れども吾人の責務は益々重大となり、その奮励努力を要すること往時に倍しするに至る。これ余が微力を尽くして後進青年の発達を切に奨励する所以なり。

 将軍は公務多忙のため、常盤会監督として日夕舎生に接することを許されなかったので、同郷の後輩船田一雄氏が、将軍の下に舎監として直接舎生の指導に当たっていた。しかし常盤会に対する将軍の責任概念は極めて強く、あの筆不精な将軍でありながら演習、出張等の旅行先からまで寸暇を偸(ぬす)んで船田氏に宛て、屡々常盤会に関する通信を送っている。その一二を挙ぐれば次のようなものがある。

 其の一

 前略、益々御清康奉賀候。その後御病気は如何哉。一日も速に全癒あらんことを祈り居候。小生も名古屋地方に於ける演習を了え、目下岡山地方の大演習に赴く途中に有之候。過日の記念会費に不足を生ずれば同郷会費よりその不足額を支出致し可然と存候間、可然相願候。なお食費に関し米屋その他への未支払いの件は甚だ遺憾に付、過日御協議致せし如くその未支払い額は一時久松家へ取替を願い、追って整理の途相付け可申候に付、前月末までにて一時切り上御成算相願度候。追々試験時期と相成り候に付、舎生諸氏の一層の奮励を希望し居候旨、御序に御伝え相願候。小生は十七八日頃帰京の心組みに有之候。右願用迄早々。

十一月十日
船田大兄              好古


 其の二
 その後御病気如何哉(中略)右にて万事本年の整理を遂げ、年末に世話掛会を開き度候に付、その積りにて万事ご整理をお願い置き候。また茶話会も年末試験済後に御施行然可と存候。多忙中要用迄早々。
九日                好古
一雄様

 豪放な将軍が学生寄宿舎の米代の支払いにも気を配ったのを見ても、その如何に郷党後進の誘掖に意を用いたかが察せられる。船田氏は常盤会寄宿舎監督としての将軍に就いて、次のような感想を述べている。
「騎兵監より第十三師団長に栄転高田に赴任せらるるまで、即ち明治四十三年六月より大正二年一月に至る二年有半の間、伊予松山藩出身の在京子弟のため、旧藩主久松伯爵家施設に係る常磐会寄宿舎監督として、真に至誠と熱意を以て同郷後進学徒のためその職に膺(あ)たられ、舎風の改善、舎紀の振作に努められたるが、将軍は公務多端にして直接舎務を弁ぜらるる余暇少なかりしを以て、余は将軍の下に舎監として舎務代行したり。その間絶えず親しむべくして押すべからざる高傑偉大なる風格に親炙し爾来将軍に接すれば接する程、多々滋々、衷心より敬仰愛慕の威に打たれ、不言不語の間幾多生ける教訓を体得せるが、左にその二、三を録似すべし。
一、将軍は大綱を統べて細事に干渉せず、あくまで不言実行率先躬行、以て範を衆に垂るるを主義とせられ、監督就任に際し左記の訓諭(前掲)を発し、舎生として遵守すべき大綱を指示せられたる以外、絶えて舎生の行動に干渉せられたること無く、終始一貫、躬行実践して舎生を感化するの一途を採られ、時折、各室を巡視せられたる際にも各室ごとに舎生に向かいただ「どうか、元気でやって居るか」の一語を毎回繰り返されたるのみなりしが、しかもこの一語真に千鉤よりも重く、舎生は一種言うべからざる感激に打たれ、数百万語に勝る一大教訓となれり。素より喜怒哀楽色に顕れず、如何なる場合にても常に彼の烱々(ぎょうぎょう)たる眼光裏、欣々然として余等に接せられ、所謂威ありて猛からざる古武士の風格を発揮されたり。
二、緊急の用件に非る限り、多くは日曜日の午後市外原宿の将軍私邸を訪問して舎務を報告するを常とせしが、玄関に入りて案内を乞うや乞わざるに、余の声を耳にせらるると取次を待たず、居室兼客間より「おい上がれ上がれ」と連呼さるるを常とし、而して要務を弁じ終われば、必ず令室に命ぜらるるに「酒を出せ、御馳走は要らぬ」の一語、真に将軍の面目躍如たるものあるに非ずや。而して将軍は常に余等に対し乃木将軍の簡易倹素なる真個武士的生活を推賞せられたり」

 常磐会監督として将軍が舎生の教育に以下に意を用いたかの一例として、次のような話がある。朝鮮駐剳軍司令官時代に公用を以て上京した将軍は、多忙の身の一夕を特に割いて常磐会を訪ね、舎生を集めて訓話をなした後、舎生の一人一人にその出身町村と姓名とを告げしめた。その時一人の舎生が名乗りを挙げると、将軍は眤(じ)っとその顔を眺めていたが、
「お前、○○○○の息子かい」
「はい○○の次男です」
将軍はいとも感慨深げに、やや暫くその舎生を見詰めた末、
「お前の親父は貧乏して難儀をしとる。お前はしっかりせにゃ、いかんぞい」
○○氏は将軍の古い親しい友人であった。多数の舎生の前で親の貧乏を素っ破抜いた将軍は、貧乏を少しも恥とせず、無為徒食こそ恥としていたのである。この真情と熱情との籠れる率直な激励の言葉を聞いて、若いその舎生は感激に目を潤したのであった。

 将軍は常磐会の監督として在京後進の世話をしたばかりでなく、郷里松山に於ける青少年の修養団体たる松山同郷会の会長にも推され、機会ある毎に帰郷して同郷青少年の訓督に任じたのである。そして常磐会に対しても、同郷会に対しても、少なからぬ物質的援助も為していたようである。愛郷の誠意がある者でなければ到底成しうるところではない。

 また将軍が後進の養成に熱心で、寛厳誠に宜しきを得たことに就いて次のような話がある。それは将軍が乗馬学校長として四谷信濃町に住んでいた頃である。同郷出身の二人の士官学校生徒が、ある日曜日に、「今日は足る程馬に乗ってみようじゃないか」と相談して秋山邸を訪ね厩から将軍の愛馬を引き出して青山練兵場に至り、二人が交わる交わる乗り回したので、馬は全身汗に塗れてヘトヘトになり、足取りもだるそうに目の色さえ変わって見えた。二人は初めて乗りすぎたと気付き、将軍から大目玉を頂戴するだろうとびくびくもので帰って来た。馬丁はこれを見て大いに驚き将軍に訴えた。しかし将軍は「まあ好いよ、若い者には乗らしてやれ」と馬丁を慰めたのみで、ただ一言も小言を言わなかったので、二人は却って恐縮したということである。

 その癖将軍の馬を愛することは人並み以上で、毎朝出勤前には自宅の狭い中庭で自ら調練をなし、ある日の如きは母堂が塵一つ残さぬまでに綺麗に掃除された雨上がりの庭を、文字通り馬蹄に蹂躙したので、母堂が親しみのあるお国言葉で、
「まァまァ信さんかや、今掃いたのに」
とこぼされると、将軍は戯談半分に、
「お母さんより馬の方が大事だからな」
と言った程に、馬を大事にしたのであった。

 その頃、白川大将(義則)は未だ陸軍大学校の学生であったが、大将は将軍と同郷の後輩であったばかりでなく、将軍の令弟真之氏と友人であったので、真之氏を訪ねて屡々将軍の家へ行ったことがある。この頃真之氏は海軍軍令部参謀で、将軍の家に同居していたのであった。然るに真之氏が米国留学を命ぜられて室が空いたので、白川氏はその後へ置いて貰いたいことを将軍に願ったところ、将軍は快くこれを承知し、白川氏は将軍の家へ寄寓することとなったのである。手数の懸かるばかりで何の利益もない他人を同居せしめて世話をするなどは、これも後輩に対する親切がなければ出来ることではない。


 誘掖 : 力を貸して導くこと
 砥砺 : 砥ぎ磨くこと
 躬行 : 自ら実行すること