将軍と旧藩主

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 秋山家は代々旧伊予松山藩主久松家の徒士侍で、旧藩時代には取るに足らぬ小身であった。十一歳で明治維新を迎えた将軍は、幼少の頃より独力自立の堅き信念を有していたので、通学すら出来ざる家庭に在りながら、旧藩主の助力を受くることを潔しとせず、従って直接旧藩主の恩恵を蒙ったことは、寸毫もなかったのである。しかし将軍の旧藩主に対する尊敬と感謝の念の甚だ強かったことは、久松家の世子定謨伯輔導のために自己の栄職を抛(なげう)って顧みなかった如き、また在仏中郷里に寄せた手紙の左の一節の如きに依るも、その一般が窺われる。

 定謨公の御話に依れば、近頃松山士民より御移住請願をなすもの続々有之候、赴き好古はこの事に就いては意見を申す可き義務もなく、且つよって定謨公へ御家政上のことは四十の年を越ゆるまでは余の経験も不十分故、御断り申上げると御約束せし程のことなれば、好古は定謨公に対しこの事に於いては別段意見申し上げず候得共、親戚中心得違いのものありてはならずと存候故、一言申述候。
 華族をして旧領地に移住せしむることに就いては新聞紙にも兼ねてその説あり、かつ宮内省の達もありしことも承知し候得共、これは一般に論ぜしことにて松山旧藩主と同士民との如き特別の関係ある間柄にて適用し難きことに候。既往の事情は当時年少のものは詳知せずと存候故、その大要を摘して言わんに、維新の前後に於いて吾旧藩民は伏見の役や長州征伐に敗北して帰り、次いで廃藩置県となる前後にも藩主には十五万両という償金を朝廷に献上さる際、殊に困難を極められその御東上遊ばさる際などは一方には無知頑民蜂起し一方には財政上に至大の困難に遭遇遊ばされその惨状は何に譬(たと)うるものなかりし。その甚だしきはは藩主東上廃藩置県の混雑に際し窃に官金を私したりして一時の富豪を極めたる輩などもありしと聞く。二百余年太平の結果と言いながら人心の腐敗してこの如き有様に至るかと思えば殆ど涙の出ずるを覚える位に候。また前述の事変の際、長州人が僅かに一艘ほかなき蒸気船を奪い取り帰りたり、また土州人が来りて土州下陣など云う札を門戸に張付けたることなどありて好古も当事幼少ながらその実情を目撃して今日なお切歯に堪えざることに候。爾後不肖ながら勉励力行し敢て旧藩主等に対し毫厘の扶助も請わず、今日一身丈けは自ら処し得る才能を蓄うるに至れり。
 既に今日の時勢となり日本挙って外国と競争せざるを得ざる世の中となりたる以上は、昔時各藩中包含する積怨はこれを散すれば好古も不同意には非ざれども、せめての事に早く松山士民が各生計を寛にし、前に夢中の夢を記せし如く松山を繁栄にし、然る後旧主の移住を請うこと至当のことならん。而してなお余力あらば国事にも力を尽くし、既往祖先の招きし恥辱を雪ぐことの必要を子々孫々にまで遺訓して、早晩松山士民をして青天白日の人民とならしめざる可からず。先便申せし如く、今日幼少な子弟は祖先の恥を雪がざる可からず、父母は養わざる可からず、自己の児童を教育するもこの児童に依頼して後来生計を保つ可らず。語を換えて言えば、子の孝行を受く可らず。旧藩主に対しては早く松山を隆盛にし旧時に受けし大恩を報ぜざる可からず。随分困難至極の場合と言わざるを得ず。
 今日旧藩主に移住を請うは破廉恥極まることにして、松山士民は何の面目あって言い出せしか。余は毫も解する能わず。藩主を慕うの情よりとせんか。婦女子に非らざるべし。地方自治のためと言わんか。産業を起こすの目的は未だ精確なる計画あるを聞かず。藩主が家計を維持する為と言わんか。旧藩主が松山に移住されなば旧臣等の惨状を目撃されこれを救うがために却って莫大の金を費やさるる事ならん。何れの点より見るもその必要あるを見ず、況(いわ)んや我御家政は当時東京にありても尤も節約を旨とせられ、奢侈(しゃし)に渉るが如き事情は毫も無くこれをや昔時旧家老の輩は相応の陪臣等ありしか家老の財産等をこの陪臣中あるいは窃に私するものあるとか何やかやの事情にて、旧時の家老は今日目も当てられぬ惨状に非ずや。今日旧藩主に移住を請うは、これを酷評すれば何うか松山に御移住あって旧家老の如き惨状に御成り遊ばされと言うに異ならず。然るに松山士民移住の請願者は多きもこれを止めるものは一人もないとは驚き入りたる事にて、松山士民も気が狂うたるか、好古が気が狂うたるか、何れにしても霄壊(しょうじょう)の差あることなり。能々判断して心得違いのなき様、希望の事に候。
 また東京に来りて家令に出せし請願書の趣旨書とか申すものありて、定謨公よりその大要を語られしが、その趣意書は毫も道理にあわざること多く、地方自治の文字をも能く知らぬ議論にて正札付の気狂いなり。好古の如き軍人すら知り得る事柄を地方の有志と称せらるる者が知らぬとは驚き入りたることにて、好古はなお松山士民が学業を練磨するの浅きに心窃に憂慮の至りに候


 将軍は私費官費を通じて前後四年半に亘る仏国留学中、熱心忠実に定謨伯の輔導誘掖に当ったので、二人の間は極めて親密であり、定謨伯は最も深く将軍を信頼して居られた。だから仏蘭西から帰朝の後も、将軍は久松家の諮問員として、外に在っては軍人としての定謨伯を推援し、内に於いては伯爵家の機務に参与したのである。また関東大震災後久松家が松山に帰在された後、将軍もまた北豫中学校長として松山へ帰ったので、伯爵の最も親しきまた頼みある相談役となり、死に至るまで久松家の柱石として旧主家のために尽くしたのである。
 日清戦争後、芝公園地内に伯爵邸を新たに建築するに際し、将軍は、伯爵が質素を旨とすべき軍人であることや、将来に於ける社会情勢や、伯爵家の内政等を考え、成るべく簡素で、小じんまりとした建築を可なりとしたが、伯爵母堂は大名の威勢衰えたる際、せめては家屋なりと宏壮にして伝統の権式を保つことを主張せられ、二人の意見に齟齬を来し、種々手紙の往復などもあったが、、将軍もついに母堂の意を諒とし、壮麗な御殿風の邸宅が建てられたのであった。この伯爵邸は宮城御造営の残材の払い下げを受けて建築したもので、材料の良好、建築の堅牢、比類稀なるものと云われていた。
 将軍の本意に背いて建てられたこの宏壮な伯爵邸が、後日将軍が北清駐屯の任を終えて袁世凱の子息袁克定を伴い帰りたる際、将軍親戚の家として利用されたことは前に述べた通りである。このところ伯爵母堂に先見の明があったようであるが、関東大震災後伯爵家が東京を引揚げられるに当たり、最も処置に窮したものは、この宏大なる邸宅の始末であったので、今度は将軍の先見が勝ったわけである。幸いにこの邸宅は水交社に買い取られ、一部は原形のままに保存されている。
 伯爵家に対する将軍の忠誠は死に至るまで変わることなく、晩年大患のため陸軍軍医学校に入院中、同郷の後輩で現在久松家の家令たる遠山陸軍主計監(道)が病院に見舞いたる時、将軍は自己の病状に就いてはただ一言「有難う」と述べたばかりで、話は直ちに伯爵家の事に移り、
「自分も斯様な体となり、内藤君(伯爵家令事務取扱克家)も老齢となられたから、君等は久松家の事に留意し、その家門の益々隆盛に、いよいよ繁栄に掛かるよう尽悴せられたい」
と言ったが、その後手術の前日(死亡の前々日)同氏が再び病院に見舞った時、面会謝絶にも拘らず、将軍は特に遠山氏を病床に招き、堪え難き苦痛を忍びながら、途切れ途切れ久松家の現在や、将来の事を話すので、遠山氏は病勢に害あることを恐れ、再三辞去せんとしたが、将軍は強いて引き止め、約一時間余りにも語り続けて、久松家の後事に就き依嘱したと云うことである。事を衒(てら)わない将軍のこととて、平素は口にこそ出さね、如何に旧主家の安泰と幸福とを心中に念願していたかが想像されるのである。


 霄壊の差 : 天と地の隔たりの様な大きな違い