将軍の反面

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 将軍は一面に於いては豪放で、磊落で、無頓着で、不精者で、あるいは陣中に在っては何時も酒ばかり飲んでいたとか、あるいは浴衣掛で来訪の外国武官と握手したとか、あるいは盃の中に飛び込んだ蝿を酒と共に飲んだとか、あるいは出征中半年に一度しか入浴せず、年中虱を生かしていたとか云われている。

 だが反面に於いては将軍は極めて細心で、厳格で、緻密で、几帳面であった。あるいは戦時の外は何時も軍服の下に正式のワイシャツを着用したり、あるいは家庭に在って婦人が髪を乱したり、子供が羽織の紐を結ばなかったりすることに対してまでも注意を与えた。将軍はまた若いときから、必ず白足袋を用い、「秋山の白足袋」で有名であった。それは黒足袋は穢(けが)れ目が見えないため不衛生という理由であったのであろう。

 朝鮮駐剳軍司令官時代、地方へ旅行すると、旅館などで敬意を表するため畳替えをしたり、風呂を新調したり、折半の女中に紋付の礼服を着せたりすることがあった。ある時将軍は随行の副官に、
「紋付などを着られると、窮屈で仕方がないから止めさしたがええ。その代わり女中の爪の垢と足袋の裏の穢いのとは御免ぢゃ」
と言ったことがある。

 将軍が北清駐屯時代には外国武官との交渉が甚だ頻繁であったが、ある日小野寺副官(重太郎)を随え、某外国軍を訪問する時、将軍は副官に、
「お前髭を剃ったかい」
と尋ねたので副官は、
「ハイ、この前の日曜に剃りました」
すると将軍は、
「外国人を訪問する時は、きっと髭を剃らなきゃいかんよ」
と言って、安全剃刀という便利な物もある、それを何処で売っているということまで懇に教えたそうである。将軍は入浴は嫌いであったが、髭だけは毎朝必ず剃ることを怠らなかった。それは仏蘭西留学時代からの習慣であろう。

 将軍が高田第十三師団長に補せられ満州守備に行く前のことである。師団長会議のため上京する将軍に随行した武川参謀(壽輔)が、所用のためある日千駄ヶ谷の私邸に将軍を訪問した。所用を終えて辞去しようとすると、折柄昼食頃であったので、将軍は参謀に「昼飯を食って行け」と言った。
 参謀は初めての来訪に失礼と思ったので、用向に托して辞退した。すると将軍は再び勧めもせずただ一言
「勝手にせい」
と吐き出すように言い捨てた。武川参謀は余りの無愛想に驚くとともに、自分の飾言を見破られたような気がして気味が悪かった。

 その次に訪ねた時には、勧められるままに御馳走になったが、参謀が一箸に刺身を二切挟んで食おうとすると、膳を向かい合わしていた将軍から、
「そんな贅沢な無作法をするものぢゃない。刺身というものは一切ずつ食うものぢゃ」
と戒められた。鬼をも取拉ぐような将軍の口から、刺身の食い方まで教えられたので、参謀は将軍の注意周到に愈驚くと共に、常人の言い得ぬことまで注意してくれる将軍の親切に感激したということである。