将軍の嗜好

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 秋山将軍のと云えば直ぐに酒を連想せしむる程、将軍の酒は陸軍部内に於いては有名であった。将軍が何時頃から酒を飲み始めたかは判らぬが、多分陸軍士官学校に入学してから後であろう。青年士官時代に豪飲したことは前にも述べたが、将軍と竹馬の友であった平井重則氏が、将軍の少尉か中尉の頃に、その寓居を訪ねたところ、将軍は数名の同僚と共に、茶碗で酒を飲みながら、何事か頻りに議論をしていたが、肴は鉢に山盛りした沢庵の漬物ばかりであったのを見て、質素と豪飲とに驚いたということである。

 将軍は大砲の音を聞くと、酒を飲まずには居られない性分であったらしい。日清戦争の時にも、日露戦争の時にも、戦場に於ける将軍の酒は実に有名なものであった。敵弾雨下する戦線に在っても泰然として盃を傾け、司令部で作戦に悩む間にも眼は地図を眺めながら、手には盃を放さなかった。その死生の巷に臨んで盃を手にして悠々迫らざる態度は、部下の士気を振起せしめること甚だ大であった。
 一部の人は将軍の戦場に於ける飲酒を以って、酒の力を借りて死の恐怖を紛らすためだと評する者もあったようであるが、その目的が何であったにせよ、弾丸雨下の戦線に在って、泰然自若盃を傾けるなどは、決して常人の言うべくして為し得るところではない。然もそれに依って部下の士気を鼓舞することを得たりとせば、将軍の酒の功徳もまた大なりと云うべきである。将軍の酒に於けるや、恰(あたか)も常人の湯茶に於けるが如しで、ひとり戦場に於いてのみでなく、平時の演習に於いても、将軍の水筒には常に必ずアルコールが満たされたのである。だから将軍が酒の力に依って、戦場に勢を駆ったという評は当らない。

 将軍は酒に強くもあったがまた酒が好きでもあった。訪問客があると必ず酒を出して共に飲むことを楽しんだ。そして客を前に置いて「御馳走は要らんよ」と言うのが常であった。これなども将軍の率直飾らざる純情の現われである。酒に関する将軍の逸話は数限りなくあるが、その二三を挙げてみよう。 将軍が第十三師団長として満洲に駐在中、夜間眼が覚めると無聊(ぶりょう)の余り、床の中でウィスキーの喇叭飲みをしているのを従卒が発見し、心配して軍医部長に報告した。軍医部長はこれを聞いて「それは良くない」と思ったが、将軍のことだから酒にかけては証拠を握らなければ、なかなか言うことを聞かないのを知っているので、、将軍の室へ行って見ると、ベッドの下にウィスキーの壜(びん)が隠してあるのを見付けた。そこで軍医部長は「しめた」とばかり将軍に向かって、
「酒を召し上がるのも結構ですが、余りお過ごしになりますと大切なお体に障ります。殊に夜中にウィスキーなどは最も良くありません」
と忠告すると、将軍は、
「見つけられたかね。悪いと知りながら飲むと、つい美味しいもんだからね。ぢゃこれから注意するよ」
と頗る従順に軍医の忠言を納れた。そして早速支那官吏から贈ってきたウィスキー一打を、軍医部長の許に届けさせた。多分お礼の積りであったのであろう。

 日露戦争中将軍が鴜鷺樹で唇に負傷した時、軍医の手当てが終わるや否や、繃帯の間から水筒の酒を口の中に流し込んだ。側にいた副官が
「酒は傷を刺激して良くありませんから、少し御辛抱なさっては如何です」
というと、将軍は、
「なに好いよ、痛くないよ」
と言って遂に酒を止めなかった。

 将軍の酒に就いては次のような話もある。
 三輪田女学校長の三輪田元道氏は将軍の二女健子の結婚媒酌者であった関係上、儀式などの事に就いて将軍と相談したが、将軍は一切先方委せと云うので三輪田氏は、
「それでは結納も、百貨店などで飾っている目録では如何でしょう」
 将軍は、
「それで結構ぢゃが、出来れば俺に一つの頼みがあるんぢゃがの」
 大将からの頼みと聞いて、三輪田氏はきっと事重大と思い、
「それはどういうことですか」
「ウン外でもないが、あの角樽というのがあるぢゃろう、俺はあれが欲しいんぢゃがの、酒を一杯詰めてね」
 三輪田氏はホッと安心して、
「あれですか、お安いことと思いますが、一応先方へ申し入れました上で・・・」
「外の物はどうでも好いが、あれだけは是非欲しいの」
 先方でも快く承諾したので、三輪田氏は早速三越へ行って注文すると、流石の三越にも角樽だけは出来合い品がない。そこで特別注文で造らした上、酒を詰めて秋山家へ送らしたということである。

日露戦争当時、種々の会合で若い士官に向かい、将軍は何時もきまって次のような言葉を使った
一、千古未曾有の大合戦に当たり、云々。
二、無為徒食は人間の大いに戒めんならんことです、云々。
 そして宴会などで酔いが廻ると、極めて調子外れの節で、次の二つの都都逸を歌ったのである。
「大海はみんな水だよ手ぢゃ防がれぬ
     打っちゃって置きなよ人の口」
「だって今更どうなるものか
     隠しだてすりゃなお知れる」
 この都都逸は将軍自ら作ったものか、あるいは他で覚えたものかは不明であるが、日露戦争中、外国戦争武官が秋山支隊へ視察に来たときの心持を歌ったものだそうである。当時秋山支隊方面に於ける我が軍の防備は頗る薄弱であったので、総司令部に於いては外国武官に詳しく見せることを好まなかったのであるが、将軍は隠しても判るのだから、隠さぬ方が良いと言って、時には弾丸の飛んで来る処までも案内し、外国武官の方で逃げ出したというほどである。

 将軍は有名な酒豪家であったけれども、家庭では一合か二合の晩酌で陶然としたのである。そして屡々その場に寝てしまうので、あの大きな体を寝室へ運ぶのに、よく家族の人を困らしたものである。将軍はそれほど酒が好きであったけれども、決して酒の賛美者ではなかった。日露戦争中将軍の副官として日夜側を離れなかった中屋大尉に対し、ある時将軍はしみじみと、
「お前は俺と一番親しかったけれ、俺の長所も短所もよく知っているだろうが、短所の真似をしてはいかんよ、酒を呑む真似なんかはせんが好えよ」
と語ったそうである。

 煙草もまた将軍の最も嗜好したものの一つであった。そして将軍が常に愛用したものは紙巻煙草で、それも軍隊用の「ほまれ」か、または「朝日」で、そこにも秋山式の質素が現われていた。
 将軍の陣中生活は誠に簡易質素なもので、司令部に依りては寧ろ平時よりも贅沢と思われる生活をなしている者もあったが、将軍は何時も兵食同様の食事を執って一言の不平も、小言も唱えなかった。ただ酒と煙草とばかりは絶やさぬように注意することが必要であった。将軍は陣中に於いても、自分でマッチを携帯することは滅多になく、戦場で煙草を喫う時には何時も山内副官を呼ぶのであった。将軍は煙草を食喫する方であったから、或いは節煙するために、態と自分でマッチを持たなかったのではないかとも思われる。
 将軍は煙草を喫うのには面白い癖がった。昼間起きている時には吸殻を必ず火鉢の周囲に規則正しく立て並べ、決して乱雑に打ち棄てることはしなかった。然るに一度寝床に就くと、吸殻は所嫌わず随所に投げ遣るのである。日露戦争中将軍の寝台の周りには煙草の吸殻が縦横に狼藉しているので、吸殻掃除が毎朝従卒の一仕事であったというが、それは家庭に於いても似たようなものであった。昼夜趣を異にする将軍の吸殻哲学は、遂にこれを解くことが出来なかった。

 煙草に就いて将軍には、次のような逸話がある。
 将軍が北清駐屯時代は関税の関係上、支那朝鮮では外国煙草は日本に比べて非常に安かった。だからこれらの地方に在留する邦人は大概金口の外国煙草を常用したもので、内地に帰る時には規則の許す限り、外国煙草を無税で内地へ持ち帰るのが常であった。将軍が北清駐屯の任を終えて帰朝する際にも、副官がこの事を将軍に話すと、将軍は断固としてこれを退け、唯一本の外国煙草も内地へ持ち帰ることはしなかった。出発の際愈乗船すると、将軍は早速日本煙草を出して吸おうとするので、見送りに来たある人が外国煙草を出して勧めると、
「日本へ帰ったらまたこれぢゃから、今から馴らしておくんじゃ」
 将軍は超然として馥郁(ふくいく)たる紫煙の中に、朝日か何かの臭い煙を吹いていた。


 馥郁 : 良い香りがただよっていること