義経と騎兵

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 「坂の上の雲」では日本騎兵戦術の先駆者として源義経の名が挙げられている。「義経」「街道をゆく」など他の作品中の記述も参照しながら、彼の騎兵戦術について紹介していく。


平安時代の騎兵

 平安時代は「弓射騎兵」が戦力の中心であり、馬に乗った武士達が戦場の主役であった。そのため、騎馬武者だけの部隊による機動戦術も可能であった。この頃の騎兵同士の戦いは一騎打ちがメインであり、お互いに矢を射かける「弓射」、太刀や長刀による馬上戦「打物」、そして落馬後に腰物で敵の首を取る「組討」という流れであった。
 「坂の上の雲」の前年に書かれた「義経」には、騎兵の特質について次のような記述がある。

 日本でもっともすぐれた騎兵である坂東武者でさえ、馬とは格闘用のものだとおもっている。かれらは馬を一騎打ちの道具としていた。たとえば駈けさせながら相手を射倒す騎射の術、馬上の組みうち術、一ツ所で蹄をかつかつ鳴らしながら馬を回転させる輪乗りなど、坂東武者のもっとも得意とするところであり、平家武者はつねにそれを恐怖していた。
 が、機動の思想がない。
 乗馬武士を純然たる騎兵集団として運用し、騎兵の特徴である長距離移動による奇襲という戦術思想がなかった。源氏だけでなく平家にもなく、ないどころか、その後もない。ようやく三百七十余年後に織田信長が出て桶狭間への騎兵機動による奇襲を成功させたが、わずかにその一例をのぞき、その後にもなく、維新後、近代騎兵の思想のが入ってのち知識としてようやくその運用法を知った。しかし、ヨーロッパでも、義経の騎兵活動ほどのあざやかさを示した例は、数例しかなかった。
―騎兵の特質はなにか。
と、明治陸軍の騎兵監であった秋山好古は陸軍大学の学生に講義したとき、いきなり拳をかため、素手をもってかたわらの窓ガラスをつきやぶり、粉砕した。
―これだ。
という。素手が、血みどろになった。要するに騎兵は敵の意表を衝き、全滅を覚悟した長距離活動と奇襲を特徴とする、という意味を、この明治の軍人は象徴的に説明しようとしたのであろう。

「義経」〜鵯越〜 より

 翌年から書かれる作品の主人公である秋山好古のエピソードが紹介されると共に、信長の桶狭間での戦術も騎兵機動によるものであると述べられている(ただし、「国盗り物語」では信長の騎兵戦術は描かれていない。このことは「戦国時代の騎馬隊」で解説)。
 また、「街道をゆく」で青森、岩手を旅したときの紀行文「北のまほろば」でも、次のように義経の騎兵戦術を紹介し、彼の騎兵戦術の原点が奥州滞在時代の体験であると推論している。

 いまの神戸で滞陣している平家軍に対し、一ノ谷の崖の上から奇襲し、平家を海の追いおとした。ついでいまの香川県の屋島を軽騎兵によって急襲し、さらに海に追いやった。最後に、いまの山口県壇ノ浦では海戦を演じ、ショーを見るようにあざやかに勝った。
 義経が世界戦史上の存在であることは、騎兵をかたまりとして運用し、成功したことにある。
 遊牧民族では、常用される。しかしそれ以外では、騎兵運用の理想とされるこの戦法をおこなったのは、世界でも義経がはじめてだったのではないか。
 平安時代の奥州は、牧の国だった。牧場では、馬が一頭駈けだすと、群れがそれにならって駈けだす。そのとどろくような光景を、義経は奥州藤原氏のもとに流寓しているときに見たはずである。その一頭ずつに騎士をのせればそのまま戦法になるのではないか。
 ついでながら、それまでの日本の合戦では、騎乗の者一騎が敵の一騎と格闘するだけで、いわば個別的な格闘の総和が、全体の勝敗になった。騎兵の集団運用をすれば、足し算が掛け算になるのではないか。


「街道をゆく」〜北のまほろば〜 より


「一ノ谷の戦い」と「屋島の戦い」

 義経が一ノ谷を小部隊の騎兵で襲撃して成功した。平家がまもる一ノ谷城については、源範頼の源氏本軍が平面から攻めていたが、義経は京都で騎兵団を編成し、ひそかに丹波篠山へ迂回し、山路をとおって三草高原を越え、やがて鵯越へ出て一ノ谷に向かって逆落としの奇襲をかけた。また屋島襲撃も小部隊の騎兵をもってした。


「坂の上の雲」〜騎兵〜 より




 寿永三年(1184年)2月4日、源範頼を総大将とする源氏軍は京を出発し平氏が陣を構える一ノ谷へ向かった。途中、源氏は軍を二手に分け、範頼率いる本軍(約5万5千)が一ノ谷東方の生田口方面へ、義経率いる別動隊(1万〜2万)は迂回して西方の塩屋口方面へ進軍。その後、三草山の敵陣を夜襲攻撃で壊走させた義経は鵯越でさらに軍を二手に分け、自らは僅か70騎を率いて一ノ谷の裏手に回り込んだ。そして、義経は断崖絶壁の上から平氏の陣へ駆け下り、意表を突いた攻撃で敵を敗走させることに成功したと言われている(ただし、この「逆落し」は「平家物語」の創作であるとの見解が有力)。

 翌年2月18日、屋島攻撃の命を受けた義経は、暴風雨の中150騎を率いて渡辺津を出港。そして勝浦上陸後に敵の守りが手薄であることを知った義経は屋島へ急行し、源氏が海から攻めてくるものと思って油断したいた平氏軍を打ち破った。
 一ノ谷の戦い、屋島の戦い、どちらも義経が騎兵の機動力を生かして敵の背面に回り込むことで勝利を得た戦いであった。