真之と野球

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海軍に野球を広めた真之

 海軍兵学校で野球を始めたのは真之だった。

 ある時、真之がアメリカで出版された小冊子を片手に、「これには米国で行われているベースボールという遊技のルールが書いてあるから、翻訳して我々でもやってみようじゃないか」と提案した。そして、真之が翻訳したルールを兵学校生徒達が覚え、チームを作って野球を始めた。当時はバットが無かったため、棒きれで代用したという。また、グローブも無く、素手でボールを掴んでいたため、真之の左手小指は後年まで硬直してしまった。

 友人の子規が野球好きであり、また後述する『褌論』にも「其の昔大学予備門に在りたる頃は随分野球に耽りたるものにて・・・」という記述があることから、真之も大学予備門時代に子規と共に野球を楽しんでいたと思われる。

褌論

 明治40年、早慶戦中止の直後、ハワイのセントルイス球団が来日して慶応の野球部と対戦した。慶応はセミ・プロチーム相手に苦戦し、連戦連敗を重ねていた。この試合をいつもネット裏で観戦していた真之は最終戦前日、選手達に『褌論』という書簡を送った(原文は「資料」「褌論」に掲載)。これを受け取った選手達は大いに励まされ、最後の一戦に大勝したという。


※上記の出典元である戦前の伝記『秋山真之』では、慶応が最後に1勝しかできなかったような記述になっているが、実際の対戦成績は慶応が5戦2勝3負。ちなみに、日本における野球試合で入場料を徴収したのはこの時が初めてとのこと。