日露戦争実記、写真画報
(写真編)

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閔妃の写真?


日露戦争写真画報 第一巻より

  1895年に三浦梧楼に暗殺された閔妃。日本史の資料などに掲載されている彼女の肖像写真について、写っているのは閔妃本人ではなく、宮中の侍女であると言われている(参照記事 : 歴史と国家 雑考「閔妃の写真はなかった」 、 朝鮮日報「1909年馬山郵便局消印の「閔妃はがき」発見」)。この説を提起した佛教大学の三谷憲正氏は、閔妃のものとされる肖像写真は『明治頃の雑誌では「宮中の侍女」「宮中の官女」「宮中の女官」などの説明が出ていました』と述べている。実際、日露戦争写真画報の第一巻でもその写真が「宮中の侍女」として掲載されている。


露国の美人


日露戦争写真画報 第二巻より

 この他にもロシア人の服装を紹介する写真が掲載されている。敵国を罵るようになった昭和期とは違い、この頃はまだ相手国の事を知ろうとする心のゆとりがあったようにも思える。


第三師団の諸勇士


日露戦争写真画報 第七巻より

 極東軍事裁判で絞首刑となった松井石根は、歩兵第六連隊中隊長として日露戦争に従軍し遼陽会戦で負傷。後に第二軍参謀となる。松井の戦争中の追憶談は昭和十年の「参戦二十将星 日露大戦を語る」に掲載されている。
 また、写真画報第十六巻の記事では、松井が遼陽会戦で部下を率いて敵陣の鉄条網破壊を行った様子が紹介されている。


日本海海戦名誉の戦傷諸勇士


日露戦争写真画報 第二十七巻より

 後の連合艦隊司令長官 山本五十六も当時は負傷者の一人。日進甲板で爆風により指二本を失う重傷を負った。この時に着ていた軍服は、長岡市の如是蔵博物館に展示されている。水野広徳の「此一戦」にも「高野候補生(五十六)及び下士卒数名を負傷せしめ」とその名がある。


ロシア軍の服装


日露戦争写真画報 第五巻より

 上段右より、歩兵中尉、冬帽の歩兵、憲兵。中段右より、コザック兵士官、防寒服の歩兵、当番士官。下段右より、一年志願兵、音楽隊上等兵、夏服の歩兵上等兵。


兵燹中の遼陽


日露戦争写真画報 第十六巻より

 彩色写真。停車場炎上中の遼陽市街(九月三日)。



当時の金州と遼陽



日露戦争写真画報 第十七巻より

 上段左 : 金州城内の露店   上段右 : 金州城内の占い師
 下段左 : 遼陽城内の露店   下段右 : 遼陽城内の靴修理



朝日艦上の石炭積み込み


日露戦争写真画報 第二十三巻より

  写真中央の甲板上に積まれている包が石炭。艦橋は炭で汚れないように布で覆われている。また、乗員は作業用の服を着て積み込みを行っている。



日本海大戦後の夕照


日露戦争写真画報 第三十七巻より



満州軍司令部の総参謀長室


日露戦争写真画報 第四十巻より

  右から児玉、井口、松川。最近の書籍でも時々掲載されている写真だが、「児玉源太郎と参謀」「参謀長室の児玉源太郎」というような紹介で、左二人の名前が出ているものはない。松川の写真も意外と少なく、これを含めて5、6枚しかない。



三井家の連合艦隊凱旋諸将軍歓迎会


日露戦争写真画報 第三十九巻より

  東郷、上村など連合艦隊の諸将が出席した三井家主催の歓迎会。この写真を撮影する際、フラッシュの光源として点火したマグネシウムの火花が天井の飾りに燃え移り、東郷ら来賓も席上のシャンパンなどで消火活動を行ったという。。



ステッセル


日露戦争写真画報 第十三巻より

  中央は日露戦争当時の肖像写真、左右は若いころのステッセル。