山本権兵衛

坂の上の雲 > 登場人物 > 山本権兵衛【やまもとごんべえ】


山本権兵衛

出身地

薩摩藩

生没年

1852年〜1933年

海軍兵学校

2期

海軍大学校

日清戦争時

大本営大臣副官

日露戦争時

海軍大臣

最終階級

海軍大将

伝記、資料

「偉人権兵衛」(村上貞一)

 薩英戦争で初陣し、戊辰戦争では鳥羽伏見、北越、庄内、函館などを転戦。維新後は海軍兵学寮に入り、卒業後ドイツ軍艦での遠洋航海を経験する。帰国後は各艦での海上勤務を経て浅間副長、天城艦長、高千穂艦長などを歴任。明治24年に海軍大臣官房主事となり、これ以降は海軍省主事、軍務局長など軍政方面に携わるようになっていく。日清戦争後は西郷従道海相の信任を背景に海軍増強や人事刷新を断行していった。明治31年に海軍大臣に就任し、六・六艦隊整備、軍令部の独立などを実現。日露戦争では東郷平八郎を連合艦隊司令長官に抜擢した。
 日露戦争終結を見届けて海軍大臣を辞任するが、海軍の長老として部内に大きな影響力を持ち続けた。大正2年に内閣総理大臣に就任して政界へ復帰すると、軍部大臣現役武官制の廃止、文官任用令の改定などを実施。しかし、シーメンス事件の責任を取る形で僅か1年で辞職となり、予備役へ編入される。大正12年、加藤友三郎の急死に伴い関東大震災直後に再び首相に就任。復興事業に取り組んだが、虎ノ門事件で翌年には総辞職となった。その後は表舞台に出ることなく、昭和8年に病没した。


権兵衛の逸話(兵学寮時代)

糞尿を呑ませる

 権兵衛が海軍兵学寮にいた頃、校長や職員らが寮の糞尿代で慰労会を開いたことがあった。これを聞いた権兵衛は「酒を呑みたい奴はついてこい」とと仲間を集め、糞尿を詰めた樽を宴会場に持ち込んだ。
「おい達のたれた糞を呑んぢょるそうな。それならまだ残っていたから、ついでに呑んで頂こうと持ってきました」
すると校長はあっさり降参し、
「それは御苦労じゃ。しかしそれを呑まなくとも、まだここにお前らのたれた糞がまだ残っていから飲んでくれ」
と言ったので、あとは学生らも飲み始めて大宴会となった。


権兵衛流算術

 兵学寮では粗暴な言動が多く、勉強を好まなかった。特に数学は苦手であり、加減乗除すらまともに会得できなかったという。そのため、当時の生徒間では無茶苦茶な算術解式を「権兵衛流算術」と称する新流行語ができてしまった。


喧嘩仲裁で殴る

 ある朝、二人の寮生が炊事場で殴り合いの大喧嘩を始めた。誰も止めることが出来ずに遠巻きに見ていると、そこへ権兵衛が通りかかった。周囲の野次馬がが「山本なら何とか仲裁するだろう」と道をあけると、権兵衛は止めるどころか喧嘩をしている二人の頭を左右の手で殴りつけた。驚いた両人は怒りだしたが、「双方が真っ赤になって殴り合っている時に、理屈なんか言って仲裁しても止まらないだろう。それに喧嘩は寮の禁制、このままにしておけば放校処分よ。それじゃ可哀そうだから、おいどんが喧嘩両成敗の意味で有難涙のこぼれるような目覚ましを一つずつ与えたまでだ。それが悪いというなら、今度はおいどんが相手になってやる」と権兵衛が再び拳を突き出すと一目散に逃げ去ったという。

権兵衛の逸話(日清戦争〜首相時代)

従道夫人の差し入れ

 日清戦争中、広島の大本営に出張していた西郷従道と権兵衛のもとに、西郷夫人から綿入りのパジャマが届けられ、二人はこれを着て寒さをしのいだことがあった。
 それから数十年後、神経痛に悩まされていた権兵衛を心配した娘が厚手の上着を仕立てて届けた。すると権兵衛は「俺はもっといい物を持っているぞ」と言って、つぎはぎだらけでボロボロになった上着を持ち出してきた。「これは日清戦争の時に西郷のおきよさんから送られた物だ。もったいないから着られるだけ着ようと思って、俺がみんな繕ったんだよ」。


日比谷焼打ちの現場視察

 講和条約反対の焼き討ち騒ぎがあった晩、状況を視察してきた権兵衛の副官が海軍大臣官邸に報告に行くと、権兵衛は巡査一人を伴って出かけているとのことであった。さらに2時間ほど視察をしてきた副官が再び官邸に戻ると、権兵衛はすでに帰宅していて、二階から外の様子を眺めていた。副官が状況を報告すると、権兵衛は「俺も見てきたよ」と言った。大騒動の中、群衆に紛れて状況を視察に行った閣僚は彼だけであった。


神のお告げ

 首相時代のある日、権兵衛の家に飯野吉三郎という行者が訪ねてきた。飯野は応対した山本家の取次に対し「昨夜、国家の一大事について神様のお告げがあった。よって総理大臣たる閣下にお知らせする。是非とも閣下にご面会したい」と告げた。このことを聞いた権兵衛は、取次に次のように答えさせた。「閣下は『自分も昨夜、神様からのお告げがあった。飯野吉三郎という者が行くかもしれないから、そんな者は相手にしてはならんとの御託宣だ。神様のお告げだから面会は相成らん』と申しておりましたので、お帰り下さい」。


神のお告げ

 首相時代のある日、権兵衛の家に飯野吉三郎という行者が訪ねてきた。飯野は応対した山本家の取次に対し「昨夜、国家の一大事について神様のお告げがあった。よって総理大臣たる閣下にお知らせする。是非とも閣下にご面会したい」と告げた。このことを聞いた権兵衛は、取次に次のように答えさせた。「閣下は『自分も昨夜、神様からのお告げがあった。飯野吉三郎という者が行くかもしれないから、そんな者は相手にしてはならんとの御託宣だ。神様のお告げだから面会は相成らん』と申しておりましたので、お帰り下さい」。


二刀流

 ある夜、山本邸の玄関の戸を激しく叩き「火事です。起きて下さい」と叫び続ける者がいた。家人が起きて耳をすましたが、それらしい気配もない。強盗が戸を開けさせるためにウソをついているのではないかと心配して戸を開けるのをためらっていると、権兵衛が玄関にやってきた。見ると、彼は片手に刀、片手に棍棒を持っている。撃退の準備ができたところで戸を開けてみると、そこにいたのは警察官で、近所では本当に火事がおきていた。この一件は後で笑い話となったのだが、なぜ権兵衛が二種類の武器を持ってきたのかが分からない。そこで家族がそのことを尋ねると、権兵衛は「強盗が刃物をもっていたら刀で立ち向かうつもりだった。しかし、相手が刃物を持っていない場合は刀で立ち向かうのは卑怯だから、棍棒で戦うつもりだった」と答えた。


カイゼルも称賛

 明治40年、伏見宮に随行して欧州に渡航した権兵衛は、ドイツでカイゼルに謁見した。この時、「ドイツで何か見たいものはないか」と尋ねたカイゼルに対し、権兵衛は「ございません。しかし陛下、ドイツで何か私に見せて下さるものがあるのですか」と切り返した。この回答に自尊心を傷つけられたカイゼルは通常のものでは駄目だと考え、権兵衛に機密工場を見せることにした。後にカイゼルは「山本という男は、今までに会ったことのない日本の大偉人だ」と称賛したという。


大隈重信の修正を拒絶

 開国五十年史が編纂される際、大隈重信が総裁として各専門家の原稿をチェックし多数の修正を要求した。これに対し権兵衛は、「余人は知らず、拙者の草稿は一字一句の修正を許さない。もしこの条件が気に入らなければ草稿を返してもらおう」と言い張って譲らず、遂に大隈は「流石に山本は自信が強くて感心じゃ」と感嘆した。