米国海軍の大拡張

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 欧州の強弱諸国が各々その全力を挙げて、惨憺たる交戦に忙殺されている間に、西半球の局外に中立して独り平和に享楽しつつある、北米合衆国が咄嗟に軍備の大拡張を決行したることは、何等か別に為さんとする処あるかの如くなれども、凡そ現時の世界は国するものが、その軍備を充実して国権を維持し国利を伸長せんとするに、別段の不思議もないのである。米国がその軍備、特にその海軍を拡張せんとするは、決して今更の問題ではなく故マハン少将の如き先覚者はすでに数十年来これを唱道して熄まざりしもので今次これが実行を見るに至りたる動機は言う迄もなく欧州の大戦その物である。米国国民は昨年来潜水艇の商戦撃沈問題に就き独逸と数次の交渉に際し、痛く自己の国際的威力の不十分なるに刺激されたると同時に彼の英国海軍が絶大の勢力を以て海上を制し戦時に於いても能くその海外貿易及び海上交通を維持し、なお進んでその敵国を包囲状態に孤立せしめ、陸上攻戦の原動力たるを認め深く自国国防の実力如何を省みるに至り海軍拡張せざる可からず陸軍常備せざる可からずの絶叫は一時に国民の与論となり、忽ち秋火の勢いを以て合衆国全国を風靡し、終に海軍当局に提出せる増艦計画を小なりとし一層膨張せる大計画となって最近の議会を通過したること周《あまね》く世人の知れる通りである。
 今ここに至るまでの米国諸名士の諸論の要領を摘記せんに、
一、海軍軍備調査委員長ワイス・ヲード氏は曰く「米国は敵の来攻に際しその両洋海岸、巴奈馬《パナマ》運河および海外領土を防衛し且つ西半球にモンロー主義を強行し世界の公海に我が利権を保護するため十分なる陸海軍の兵備を必要とす。而してこれが実行の手段として先ず急速に海軍力を拡張し曾《かつ》てありたる世界第二の海軍国たらざる可からずと同時にまた陸軍を強大にし仮想敵国の大陸軍が我領土を侵すに備えざる可からず」
一、外交調査委員長上院議員ストーン氏曰く「余は米国商船の雄大なる発達を見んと欲するのみならず、これに伴って我海軍の大拡張を熱望して熄まざる者なり。米国にして強大なる海軍を有せば大なる陸軍は必ずしもこれを要せず。もし敵国の軍艦が二十五浬の射程ある砲を以てせば我は三十浬の射程ある海岸砲を具え、強大なる海軍と協力せば何ぞ恐るるに足らん」
一、共和党の領袖ルーズベルト氏曰く、「先ず第一に吾人は雄大周知なる海軍拡張を決行し急速に世界第二の海軍国たらざる可からず。第二に陸軍参謀本部をして米国現下の国防状態を腹蔵なく披歴せしめ吾々国民は充分これを熟知し居らざる可からず」また曰く「現下欧州大戦の実況を観察するに英国の大艦隊が自国の港湾に根拠して居りながら世界の海上を制圧し以て自国を防衛すると同時に敵国を包囲して戦わずして敵を屈しつつあるは洵《まこと》に感嘆に堪えず、斯くの如き偉大なる不動の現象は有史以来未だ曾《かつ》て見ざる処なり」
(付言)流石はこの人能く英国艦隊の腹芸を看破し居れり。
一、海軍軍事本部の決議に曰く「今次欧州大戦の経過は、本部をして、我海軍の勢力に就き抱懐せし意見を変更せしめたり。即ち海戦の当初より、全然海上を制圧するの必要は、東西二大洋に面する米国に取り最も切実なるを認む。それ海軍は単に沿岸に於いて、敵の来攻を防御するを以て足れりとせず、遠き洋心に敵を索《もと》めてこれを撃破し、以て我海上貿易を保護し海外交通を維持せざる可からず。惟《おも》うに米国現在の海軍力は平時に於いて外交上の主張を貫徹する能はざるのみならず。戦時に際し交戦の目的を達するに足らず世上或はこの大戦の教訓として潜航艇万能を唱える者あるもこれ実に浅博なる素人論に過ぎず英仏諸国はすでに敵の潜航襲撃よりその軍艦を保護し得たると共に将にその商船をも保護するに成功せんとしつつあり、潜航艇はもとより有力なる補助兵力にして、且つその必要の度漸次増進すべきも、未だこれを以て海軍力の主力となる可からず大戦の教訓は過去と等しく依然戦艦が海上の主人公たるを証明し居れり。」
 以上、諸名家の論旨正々堂々計画の軍備未だ成らずして、すでに天下の海洋を制有せるの概あるように認めらるる。もとより米国の有識なる為政家の胸中には、これを以てこの大戦のため膨張したる工業の経済を維持し、また一面には国富の激増に伴う世道人心の頽廃《たいはい》を予防せんとする方寸もあるであろう。それは兎に角としてこの海軍大拡張が当然の理由に基づき時宜を得たる賢明なる措置であることは謂うを俟《ま》たぬのである。斯くして一気呵成に三年計画を以て成立したる大拡張案は即ち左様の通りである。

戦艦 

十隻

巡洋戦艦

六隻

軽巡洋艦

十隻

大型駆逐艦

五十隻

大型潜航艇

九隻

小型潜航艇

五十八隻

その他、水雷母艦、工作船、病院船、給油、給兵船等

十数隻


 三四年の後即ち大正十年これらの新艦艇が悉く完成したる暁に於いて従来の計画に属する未成既成の艦艇と合して米国の海軍は左の如き世界第二の大兵力となるのである。

新式戦艦 

二十七隻

旧式戦艦(安芸薩摩に準ず)

十三隻

新式巡洋戦艦

六隻

新式軽巡洋艦

十隻

旧式軽巡洋艦

二十一隻

大型駆逐艦

百○八隻

大型潜航艇

十二隻

小型潜航艇

百二十隻


 これらの大艦隊には給炭、給油、給水、給兵、給糧の諸船その他水雷母艦、水雷敷設船、工作船、病院船等の移動的軍用機関が整然と附属して居るから世界の如何なる所に至るも、その本国同様立派に臨時の軍港を開き軍需の補給も艦船の修理も出来るのである。またその大型潜航艇は独逸潜航艇がなしたる如く単独に太洋を渡航し得るは勿論、小型潜航艇と雖も、母艦さえ護送せば航洋自在の性能を持って居る。のみならず前記の巡洋戦艦または軽巡洋艦には大抵二台ないし四台の飛行機を搭載して居るから、この大艦隊の来れる沿岸の都市はその爆弾で焼き打ちもされ爆破もされるのである。
 滑稽なる日米戦争談がこの海軍拡張に大関係のある訳ではないが、米国には今なお日米戦争を口にするものが少なくない。現に自分が面会したる人士中にも真面目にその避く可らざるを談じたるものが二三あって、黄色新聞は、抱腹極まる日本来寇説などを伝えている。紐育《ニューヨーク》の旅館で某新聞通信員が、例の米国一流の淡泊なる調子で「日本は鋭意海軍を拡張しつつあるにあらずや、而して何時米国と戦う心算《つもり》なりや」との露骨なる質問に対し、自分は近き過去および将来に於いて、日米戦争の原因を探して何処にあるか、もしありとすれば無きを有りと誤信する連中にあるのだ。我日本にはかくの如き非常識のことを誤信する愚物《おろかもの》は一人も居らない。また能く物の数理を考へ見よ。新聞の伝うる如く日本はこれから六七年掛りて僅に八四艦隊即ち十二隻の主力艦を作らんとしつつあるのである。如何に日本が神国でも十二隻で今三十三隻の主力艦を作らんとする米国に来攻し得ると思ふか、斯く言えばもし優勢の艦隊さへあれば来攻せぬとも限らぬと言ふであらうが、古来神聖なる王道の上に立てる日本帝国は彼の覇者の如く弱国に対して決しても侵略を事とするやうな国柄でない。去りながら米国であれ、また他の諸国であれ、万一東亜に於ける我伝来の権利を侵害し帝国の存立を危くすることあれば、その時こそ十二隻は愚か一隻の老朽艦を以てしても極力抗戦するであらう。而して必ずその敵を微塵に撃破して見せる。もしそれが一年二年で撃破し得られざれば百年千年立ても勝たなければ熄《や》まない」。と笑って対《こた》えて置いた。
 兵は兇器で余り沢山あり過ぎると今の欧州戦争の如く兵器が逆さに人間を使役して無益なる戦争を為さしむるに至るものであるが今度の米国海軍大拡張はその自衛軍備としてまずその国力相当の程度であると考える。

(大正五年十一月新聞掲載)