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       出身地  | 
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       生没年  | 
      
       1868年〜1918年  | 
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       海軍兵学校  | 
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       海軍大学校  | 
      
       −  | 
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       日清戦争時  | 
      
       筑紫分隊士  | 
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       日露戦争時  | 
      
       連合艦隊参謀  | 
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       最終階級  | 
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       伝記、資料  | 
      
       「秋山真之 」(桜井真清)  | 
    
 16歳の時に中学を中退、上京して友人の正岡子規と共に東京大学予備門で学ぶ。その後、兄
秋山好古の勧めで海軍兵学校に入学し、首席で卒業する。明治27年、筑紫の分隊士として日清戦争に従軍した。
 明治30年、米国留学を命じられ、マハンから海軍戦術を学ぶとともに米西戦争を視察。帰国後は海軍大学校の戦術教官となり、兵棋演習を取り入れるなど体系的な海軍戦術教育を行っていった。
 明治36年には常備艦隊参謀となり、翌年勃発した日露戦争では東郷平八郎のもとで連合艦隊の作戦立案で中心的な役割を果たす。そして明治38年5月27日、日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を破り日露戦争の勝利に貢献した。海戦前に発せられた有名な電文「本日天気晴朗なれども波高し」の起草者でもある。
 戦後は海大教官、三笠副長、音羽艦長などを歴任したほか、軍務局長としてシーメンス事件の処理に当たった。その後も活躍を期待されたていが、51歳の若さで病没した。
      年表、写真集、逸話集真之の生涯を略年譜形式で紹介しています。 青年時代から晩年までの真之の写真を掲載。 真之の様々なエピソードを紹介しています。 戦前の伝記から真之の名言、金言を抜粋。 晩年の真之と大本教との関係を詳しく紹介。 真之が幼少期に詠んだ古今風の和歌です。  | 
      
      秋山兄弟とその家族好古のエピソードや写真、伝記などが満載! 好古と真之、似ている所や違っている所。 秋山兄弟2人の年表を並べて紹介。 父 久敬が真之に語った昔話などを紹介。 母 お貞が真之に渡したお守りの逸話など。  | 
    
      人物評と交友関係真之と交流のあった海軍軍人による人物評。 甥の子規や当時の政治家と真之とを比較評価。 日露開戦から黄海会戦までの上司。追悼文も。 兵学校時代の親友であり、一時は同居していた。 海相時に真之を起用。真之夫妻の仲人でもある。 自伝で語った真之の思い出話などを紹介。 回顧談「正岡子規と秋山参謀」を掲載。 回顧談「嗚呼秋山中将」を掲載。 回顧談「追憶片々」を掲載。 秋山真之を中心とした人物相関図です。  | 
      
      真之と子規の学生時代学生時代の真之と子規の逸話を紹介。 七変人の人物評と能力値の採点表。 各種目別の七変人ランキングです。 野球殿堂入りした子規と野球との関係を紹介。 海軍で野球を広めた真之のエピソードを紹介。 「正岡子規ノ評」の原文を掲載。 「秋山真之ノ評」の原文を掲載。 博物学者。共立学校の同級生。 真之が海軍軍人の道へと進んだ理由とは?  | 
    
      秋山真之ゆかりの地平成17年に復元された秋山兄弟の生家。 松山市郊外にある好古と真之の銅像。 平成19年に開館したミュージアムのレポート。 真之が幼少期に石垣を登ったという場所。 横須賀に保存されている日本海海戦の旗艦。 小説の最後で真之が訪れた子規の自宅とお墓。 日露戦争の激戦地 旅順と奉天のツアーレポート。 真之が入学した海軍兵学校の紹介。  | 
      
      名参謀真之の軍学真之の兵学論を読み解く上での予備知識。 「戦術」の定義や「戦闘力」「兵理」の解説。 戦略の目的と、手段としての戦闘について。 (作成中) (作成中) (作成中) (作成中) (作成中) (作成中)  | 
    
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       ・「軍談」について  | 
      
       ・支那と対比して日本国民性の自覚  | 
    
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         幼少年編(松山時代)  | 
      
         人物編(性行・思想・余技)  | 
    
※原典 : 昭和8年発行 、 著作:櫻井眞清 、 発行:秋山眞之会 (代表者 櫻井眞清)