大往生

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 将軍臨終の地は相州小田原の山下亀三郎氏の別邸だった。将軍は何か重大なことで元老山形有朋元帥を二三度続けさまに訪問した。その山県元帥訪問の便宜のために山下氏の別邸に泊まっていたのだが、遂にそこで病んで起てなくなった。
 山下氏も非常に心配して、山下家かかりつけの医者も招き、将軍の軍医監にも来て貰って、出来る限りの手を尽くしてみたが病勢は募るばかりだった。急を聞いて親友の白川義則大将、将軍に最も親炙(しんしゃ)していた桜井真清少将、森山慶三郎中将、清河純一中将、白石信成少将も馳せつけ枕頭を離れず看護に努めた。
 令兄秋山好古将軍は検閲のために奥州白河に滞在中であったので直ちに山下氏から「何うも容体がよくない、余程重態のようだから直ぐ来てもらいたい」という意味の電信を打ったが、好古将軍からは「行かぬ、宜しく頼む」という簡単な返電があったばかりで帰って来られなかった。あとで山下氏が好古将軍の参謀、今の大将南次郎氏から聞いた話だというのだが、「あの時の返電は俺が書いた」と南大将自身が言っていたそうだ。好古将軍は真之将軍が逝去しても直ぐには帰って来られなかったが、特に陸軍大臣からの勧告により漸く葬儀前に帰京せられた。如何に好古将軍が古武士的な、武将らしい人であったかという事はこの一事でも明らかである。
 真之将軍が山県元帥を訪ねたのは、帝国海軍に関することであって、将軍は「是非国家の元老として考えて貰いたい」とて余程重要な建言をしてという事で、これも後に山下氏が元帥から直接聞いた話だそうである。
 病革ってからの将軍に就いては令息大氏の記憶を記したものがあり、塚原嘉一郎氏の隣室に於ける遺言の筆記があり、山下亀三郎氏、桜井真清少将、森山慶三郎、清河純一両中将等の記憶の綜合に依ってその詳細を記す事が出来る。
 大正七年一月下旬、将軍から留守宅に宛て風邪との通知があったが二十八九日ころ足柄病院長の診断に依って盲腸炎再発の兆候があるということであったので季子夫人が小田原へ急行し、近藤博士、本多軍医総監、小林軍医中佐も相前後して小田原へ馳せつけた。二月一日には長男大氏も急行し、桜井真清、白石信成氏、それに当時坂巻の別荘にいた森山慶三郎氏等も馳せつけ、三日には二男固(青山家養子)、三男中、岳父稲生真履、秋山健子、塚原嘉一郎氏等も急行した。この前日の東京新聞は一斉に秋山将軍重態の報道を掲げたので、一般見舞客が踵を接して来訪した。
 その夜の深更、将軍はいよいよ危篤に陥った。俗にいう「おはぐろどぶ」のような黒い血をカッと幾度も吐いた。枕頭には極めて少数の近親者のみが詰めていた。将軍は先ず長男の大氏を顧みて「お父さんは死ぬるんですよ」と極めてものしずかに死を宣し、室内は最も静寂清浄にすることを希望した。それからまた大氏に対して遺論する所があった。「宗教に依る人格の確立と、社会の救済」というような事であった。その間、口中が乾びていたと見えて、伏見若宮殿下(現在の元帥宮)から御下賜の果汁を以て常に口を湿おさせた。
 四日午前三時頃、将軍は邸内にあった見舞客の人たちに対し最後の決別を為すべく病室に招じ「皆さんいろいろお世話になりました」云々。「これから独りで行きますから」云々と別辞を述べた。見舞客の中から微かに欷歔(ききょ)の声が漏れた。しかし将軍は精神的には死の直前にある人とは思われない元気さであった。将軍は階下にまで聞こえるような、しかも機械のような早口で時局を論じ、国難の将に来るべきを予言し、対外的には国防の要を、対内的には思想の統一を切々と説いた。就中陸軍に関しては故白川義則大将に、海軍に関しては森山慶三郎中将を招いたが不在なので小林軍医中佐に対し大いに力説する所があった。「今日の情勢のままに推移したならば我国の前途は実に深憂すべき状態に陥るであろう。総ての点に於いて行詰を生じ恐るべき国難に遭遇せなければならないであろう。俺はもう死ぬるが、俺に代わって誰が今日の日本を救うか」というような激した口調であった。将軍は死ぬまで国家の前途を憂い、国家の憂いを自己の憂いとして嘆いた。最後の病床で絶叫した将軍の予言は不幸にして今日の国難日本を看破した大予言であった。今日まで将軍をして生かしめたならば何ういう大きな活躍をしているかわからない。塚原氏は隣室にあって将軍のこの遺言を筆記した。将軍は更に岳父稲生氏に対して「臨終の正念」に関して質疑した。これは稲生氏が仏教信者であったためだ。それから暫くしてふと思いだしたように「辞世というほどのものではないが」といって「不生不滅明けて烏の三羽かな」と口唱した。終わりの「かな」は聞き取れなかったが恐らく「かな」であったであろうという事である。「明けて鴉(からす)の」といったのは、そのころになって夜がしらじらと明け初め、夜明け鴉が何処かでカアカアと鳴いていたからであろう、将軍は二階の障子を全部開放たしめた。太陽の昇る前の相模灘の黎明が将軍にはまたとない爽やかなものに感ぜられたのであろう。「ああこれで気持ちがさっぱりした。今何時だ」と枕頭の人たちに聞いた。それから仰臥したままで、最早人に対せず、自ら念ずるが如く大氏と中氏とには「○は何をしろ」とハッキリと言い切ったが、青山家に行った固氏に対しては特に何等の遺言も与えなかった。これは固氏は既に青山家の人となっていたからであり、固氏は将軍をいつも「秋山のおじさん」と呼んでいたくらいであったからだ。青山芳得氏が実父であると信じていたからであって、将軍は死の刹那に於いてもその事を考慮し、わざと遺言を与えなかったのである。如何に将軍が最後まで頭脳明晰であったかがこれに依っても窺われるわけである。
 暫くして将軍は山下亀三郎氏に対して握手を求めらるらしくあったので山下氏は進み寄った。すると将軍は「今まで君に何も頼んだことはなかったなあ」と言った。「うん何も頼まれた事はなかった」山下氏は答えた。「○○を頼む」「よし、子供の事は引き受けた」と山下氏がきっぱりといった。看護していた健子さんにも何か私語した。それから口中に平常持誦していた般若心経と教育勅語とを交互に誦しながら遂に溘焉として逝去した。相模灘には太陽が漸く昇らんとして水平線上稍紅を呈していた森山慶三郎氏は急を聞いて馳せつけたが遂に臨終の間に合わず暗然として萬斛の涙を呑んだ。
 桜井真清氏は直ちに報告等のために上京、海軍省に赴き、遺骸は同日山下氏別邸を出て国府津まで森山、白石両氏が徒歩で付き添って夕刻帰京した。
 小田原の山下氏別邸は震災のために壊れて記念すべき将軍臨終の二階も可惜建直されてしまったが、本編初頭に掲げた写真は当時のものである。別邸の位置は箱根に向かって右、山手の方で当時も今も変わりはない。
 将軍逝く時五十一、人間正に理知円熟し、情意渾融し、半世の建業漸くその果を結ばんとする働き盛り分別盛りであった。惜しむべし天かの人に寿を籍さず、俊傑満腔の経論空しく湘南暁の霜と消え去ったのは洵に国家の大損失と謂うべきであった。惟うに将軍の寿や長しと云うを得ざるも、その君国に尽くしたる勲績は常人千人の及ぶ所にあらず、日露戦役の一事を見るも連合艦隊参謀秋山真之の偉功と英名とは万古に輝くであろう。

 親炙 : 親しく接して感化されること
 欷歔 : すすり泣くこと
※白石信成(1880〜1925): 愛媛出身。海軍兵学校28期卒(永野修身と同期)。日露戦争には浪速分隊長として従軍。戦後は三笠砲術長、砲術校教官、第一艦隊参謀、海大教官、扶桑艦長などを務めた。