将軍病む

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 将軍はその年の十二月一日、中将に昇進したが病気未恢癒(かいゆ)のため同時に待命仰せ付けられた。爾来閑地に在って専ら静養に努めたが、大正七年一月下旬に至り病気再発して遂に復た起たず、病床に在ること僅かに一週間、翌七年二月四日の霜白き暁、一世の英傑秋山真之将軍は蓋世(がいせい)の雄志と憂国の赤誠とを抱きながら溘焉(こうえん)として逝かれた。死因は腹膜炎であったが、何といっても、その前に病んだ盲腸炎が因を為していた事は争われぬ。初め大正六年五月、将軍盲腸炎を病んで近藤博士の駿河台病院に入院加療した。病中非常の激痛に襲われたがこの苦痛も精神力で打ち勝って見せるといって病苦と闘った。
 将軍日頃の宗教思想がこの病気で働いたのであった。将軍は病苦のために額に冷や汗を催しながら精神統一に力め、苦痛を斥けることに力めた。そして将軍は見事にそれに成功して苦痛を苦痛とせぬようになった。
 その年の十二月四日付で、山下亀三郎氏に宛てた将軍の手紙が今も山下家に保管されている。世上では将軍が、主治医の意見に依って盲腸炎の切開手術を行う事になったのを謝絶し、「必ず自己の心霊の力によって治してみせる」と頑張り、不思議にも将軍の信念通り、精神力によって病は切開を用いずして一時治療したと伝えている。しかもこれは全く奇跡的で、あの時将軍は何といっても切開すればよかったと本多博士は言っていたといわれ、切開すれば病再発する事もなく、将軍の寿命はもっと保たれていたともいわれているが、山下亀三郎氏宛の将軍の書翰を見るとそれは全く世人の推測か、あるいは誤伝であることがはっきり判る。ただ如何に将軍がその間、精神修養に努めたかという事がこれらの書翰に依って充分窺知されるであろう。

 拝啓 一昨日は御来訪、小生今後の治療に付御懇示を辱し、御芳情感泣の至に御座候。右に付、早速本多医務局長の意見を叩き、同時に診断をも受けたる処、早速患部は殆ど全癒致し居り、唯だ心身の衰弱を快復すれば宜敷、切開手術はこの年齢者に対しては危険なきにあらざれば見合せとの事にて、三宅博士に見せるまでの事なしと申され、医務局長は大臣の内諭にて終始小生の治療を監督し近藤博士とも打ち合わせ居り候事なれば、小生としてはこれに従うの外無く、これまた大臣より何ヶ月にても元気快復するまで充分に休養せよとの直接訓諭もありて、余り随意に遠方に出歩くもその行為に背く嫌い有之候ゆえ、一昨日御話しの福岡行きは先ず見合す事と致し候。(中略)
 元来小弟今次の病気に就而(ついて)は先輩や友人親戚が親切に心配し呉れる半分も小生自身は心痛いたさず、今夏発病の際、危篤と認められても小生は生死を度外にし寸分の苦痛も訴えずに平然たりし事、四囲のものの知れる通りにて、小生は自己の運命が暫く斯くならざる可らざる所以を慥(たしか)に自覚致し居り、この有難き大病と病後の静養中に多年過ぐる能はざりし無上の修養を積み、啓発会得する処不少。実際心中には非常の愉快を感じ、他日大活動の素地初めて出来上がりたる心地致し居り、折角の修養今少し続け試み、将来の心身に寸分の弱味無きよ様致度、今日のところ身体に就而(ついて)は最早掛念無しとの確信有。これなお心力の鍛錬に不足あれば四囲より身体を気遣い呉るを幸い、この好機会に主として心胆を練り置く内心に候得ば、必ず共に決して御心配被下間敷(くださるまじくそうろう)。斯く申す内にも時勢は段々と切迫し来りたれば、これも長き間に無く、これ遠からず貴兄を安神せしむる時節必ず到来すべく候。
 右は素より他人に語るべからざる処なれども、ただ貴兄の御信情に対し心中打明け申上置候。 梶X頓首
 十二月四日                   真之
 山下仁兄侍史

待命 : 地位を保ちながら、一時的に職務を担当しないこと
蓋世 : 項羽の「力は山を抜き、気は世を蓋(おお)う」が語源。世をおおいつくすほど意気が旺盛なこと。功績や名声などが大きいこと。
溘焉 : 人々の死去のさま