友人の遺児を救う

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 将軍が仁将であることを示す逸話もまた枚挙に暇がない。日本海海戦に軍使として降艦ニコライ一世に乗り込み、敵屍に祈ったときの仁恕(じんじょ)、日常部下の士卒に対する仁愛など種々の逸話、佳話が残されているが、昭和六年、故将軍銅像除幕式に際し、海軍中将野村吉三郎氏が土地の新聞記者に対して語った次の談話はその一適例である。

 秋山さんが大尉時代に渡米して海軍の研究をしていた当時、秋山さんの友人の某が米国の婦人と結婚したので、秋山さんも友人のため随分骨折ったものである。その後夫婦で日本に帰り東京に住んでいたが、主人が亡くなったのでやむなく未亡人は米国に帰り、その後杳(よう)として消息不明であった。十数年後に再び秋山さんが渡米したとき、友人の未亡人に会うべくワシントン、ボストン、ニューヨーク等を探した末、ようやく一子破萬夫に会い、金を与えて懇々と悟し、日本に来て就職せよと熱情を込めて話した等は、何人も容易に為し得ないことであろうと思う。なんといっても秋山さんは偉い人である。

 何でもこの話は、野村中将が渡米の砌(みぎり)、将軍が破萬夫という青年に訓戒しているのを隣室で親しく聞いていて、つくづく秋山という人の人格に感心させられたのだということである。

 これは将軍の人情味に豊かな一面の佳話であるが、そのほか将軍は一軍人として部下を良く愛した。部下を如何にして愛したかは晩年編の三笠副長時代の話で充分明らかである。将軍は部下を愛すると共に、部下の意見をよく採用した。よく採用することが同時にまたよく愛する途でもあったのである。
 松山市の奥村敬孝氏は将軍と同郷であり、またその部下でもあった。氏はそういう意味で深く将軍の知已の恩に感じている人である。氏は感激に充ちた態度で左の一話を語っているが、前項三笠副長時代の話と対照すると誠に興味の深いものである。

 私は明治三十七、八年日露の役には予備兵として召集せられ、軍艦赤城に乗り組み大連旅順方面に出動した。敵の艦隊は優秀である。これはどうしても旅順に押し込めねばならぬということで閉塞隊を作り、旅順口めがけて沈めたり、あるいは毎夜機械水雷を敷設したりした。ところが敵はこれらの我が船を見掛け盛んに探海燈を照らして撃ち出すので、為に一度に三人四人の犠牲者を出した。私は今までの方法ではまだまだ手緩いと思ったので、かつて松山のお囲池で習い覚えた神伝流水泳術により、潮流を利用して機械水雷を沈めに行くことを願い出た。艦長の江口鱗六という人がなかなか豪胆な人であったので、その人に話すとそれはよかろうというので、早速司令長官に願い出たが数日経っても司令部から許可が出ない。ここに於いて私は個人で秋山参謀に宛てて手紙を出した。ところがそれから二三日経つと、艦長が来いというので行ってみると、「お前の計画は面白いと思う。一つやってみようじゃないか」と言われた。これは正に知已の恩であると同時に、国家に対する忠義の為に特に将軍の激励の意味もあったと思うと、感激に堪えなかった。

 こういう風に、将軍の部下に対して情誼厚き態度は、常に部下をして将軍の為に一死なお惜しからざるの感情を抱かしめ、したがって三笠副長時代以降、音羽その他の艦長や水雷戦隊司令官としても、到るところ、悉(ことごと)く部下の士卒よりして衷心から推服され畏敬されたわけだった。

 また将軍は極めて友情に厚かった。将軍の同窓の森山中将がかつて日清戦争時代、もう一人の友人と二人で将軍をその乗艦筑波に訪ねた時、泊まるのに余分の寝具がないので森山中将を自分のハンモックに寝せ、自分はライフボートで一夜を明かしたという話がある。
 将軍は武士の情とか、武士は相身互いというような武人道徳を特に心がけていた人であった。
 日本海海戦で敵艦ニコライ一世降伏の時、東郷長官は敵艦が進行をやめるまで砲撃を中止せしめなかったが、秋山将軍は既に敵砲が沈黙した以上、砲撃を加えるのは酷だと長官に進言していた。
 また敵将マカロフの戦死に対しても、将軍は弔電を贈る事を発議したが、これは容れられなかった。バルチック艦隊司令長官ロジェストウェンスキーが負傷して佐世保の病院に入院中、将軍は東郷長官に勧めて見舞いに行った。
 しかし将軍はかかる仁義の一方、宋襄の仁に陥ることを充分に警戒していた。戦いが終わり勝敗の決が定まった後に将軍の仁義は発露されるので、戦いが完結するまではこの種の仁義は禁物としていた。蔚山沖の海戦で第二艦隊が海中に溺れる敵兵を救い、戦機を失したのは大失態だと攻撃したのは、それはまだ戦いが完全に終結していないからの事だった。将軍の仁義はこうして劃然(かくぜん)と区別を立てての上での仁義であったのである。


 仁恕 : 思いやりがあること。相手をあわれむこと。
 杳として : 事情などがはっきりしないこと。
 砌 : 〜のとき。〜の頃。
 宋襄の仁 : 無益の情けをかけてひどいひどい目にあうこと。宋の襄公が楚の軍と戦った時、「敵の陣形が整わない
 うちに先制攻撃をしかけよう」という味方の助言に対し、「困っている相手をさらに苦しめてはいけない」と敵に無用の
 情けをかけたために、態勢の整った敵軍に大敗してしまったという故事による。
 劃然 : 区別がはっきりとしていること。


※野村吉三郎(1877〜1964) : 海軍兵学校26期卒、海軍大将。1901年に三笠回航員として渡英。日露戦争中は常磐などの分隊長、航海長を務めた。その後、駐米武官、軍令部次長、鎮守府長官などを歴任。退任後は豊富な海外経験を買われて阿部信行内閣の外相を務める。太平洋戦争直前には駐米大使としてアメリカのハル国務長官と交渉を行った。