米西戦争と将軍

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 米西戦争に於ける観戦が将軍の兵学研究上多大の貢献を為した事は既に記した。
 米西戦争に対し将軍が結論として如何なる観察、意見を抱有していたか、それは将軍が帰朝後発表した講演に於いてその一部を窺う事が出来る。将軍は右の講演に於いて米西戦争の経緯を一通り語った後、最後にその私見を述べている。右の講演要綱を記す前に準備として将軍の編輯に成る戦争経過の適用を予め左に録載しておこう。

明治三十一年
二月十五日 玖馬(キューバ)ハバナ港にて米艦メーン号爆破す。
同 二十五日 米国戦備に着手し、各方面の艦隊を要地に集中す。
三月九日 米国臨時国防費五千万ドルを支出し、ますます戦備を始め、西国(スペイン)もまた戦備に着手す。
同 二十八日 メーン号爆破の審査会結了。外部爆破と報告す。ただしその加害者を探明する能はず。
四月上旬 米政府より西政府に対しキューバ島民の独立自治を許可するに就き平和的交渉有り。西政府応ぜず。
同 八日 西国セルベラ少将率いる四隻の艦隊、玖馬に向け本国を発し、同十四日ケープ・バード島に寄港し危機切迫の報を得てこの地に滞泊す。
同 十四日頃 米国官民の世論大いに武力干渉に傾く
同 十九日 米国国会は玖馬の独立を承認し、西国をして同島よりその海陸兵力を撤退せしむるに就き武力手段を採り得るの権能を大統領に賦与す。
同 二十一日 在マドリッド米国公使、米国国会の決議に基づける最後の決案を西政府に提出す。
同 二十二日 西政府は右決案の提出を以て米国の宣戦と認定し、公書を以てこれを米国に通じ且つ米国公使に退国旅行券を付与し尋て二十三日宣戦を布告す。
同 二十四日 米国各方面における艦隊に交戦動作の開始を電命し尋て二十五日正式に宣戦を布告し且つキューバおよびポート・リコ島の封鎖を宣告す。
同 二十七日 米将デューエの率いる米国東洋艦隊ミル湾を発して馬尼刺(マニラ)に向かう。
同 二十九日 在ケープ・バード島の西将セルベラの率いる艦隊玖馬に向け同島を発す。米国太平洋艦隊の主力キーウェストに集中す。
五月一日 マニラ湾海戦、西国艦隊大敗し、比律賓(フィリピン)と本国の交通ここに断絶す。
同 十二日 西将セルベラの艦隊、大西洋を横切りて西印度仏領マーチニック島に着し石炭の欠乏に苦しむ。この日、米将サムソンの率いる大西洋艦隊、ポート・リコ島のサン・ジュアン港を砲撃す。而して両軍未だ相知らず。
同 十四日 セルベラの艦隊、蘭領キラソー島に着し、ますます石炭の欠乏に窮し、尋て十五日この地を発し同十九日サンチアゴ港に入る。
同 十六日 米国大西洋艦隊、西国セルベラの艦隊キラソー島に在りたるの報を得て、悉くキーウェストに集まる。
同 十九日 米将スライの率いる分遣艦隊、キーウェストを発し、玖馬南岸を捜索し遂に同二十六日サンチヤゴ港前に来り西国艦隊の港内にあるを確知す。
六月一日 米将サムソンの率いる大西洋艦隊もサンチヤゴ港に来り、ここに海上の全力を挙げて西国艦隊を封鎖す。
同 十四日 米国陸軍第五軍団を載せたる運送船隊、タンバ港を発してサンチヤゴに向かう。
同 二十日 米国陸軍第五軍団、サンチヤゴ港沖に到着、ついで二十二日よりサンチヤゴ東方に上陸を始む。
同 二十五日 比律賓救助の目的を以て東洋に赴かんとしたる西将カマラノ艦隊、ポート・サイドまで航し、石炭の欠乏及び機関故障のため本国に還航す。
七月一日 米国陸軍第五軍団東方よりサンチヤゴ市を攻撃し攻略を果たさず。
同 三日 セルベラの艦隊急に封鎖を破りてサンチヤゴ港を逸出し、米国艦隊遮り戦うてこれを破り、セルベラの艦隊全滅す。
同 十七日 サンチヤゴの守将トーラル米軍に降り、サンチヤゴ陥ちる。
八月十二日 平和克復談判始まる。
十二月十五日 巴里(パリ)に於いて平和談判結了調印、西国は玖馬の独立を承認しポート・リコ島、比律賓及びラドロン島を米国に割譲し、米国は特に比律賓島の譲与に際し二千万弗(ドル)を西国に送ることに決す。