稀世の名参謀

坂の上の雲 > 秋山真之 > 追憶編 > 稀世の名参謀


 本稿は大正七年六月十五日、芝青松寺に於ける秋山中将追悼会の席上、当時の軍令部長島村大将が述べられた講演速記である。一部分を本分に引用したが、これは秋山中将のためには真に知己の言で名講演とされているものであるから、特に講演全部をここに録載する。


 秋山中将の御遺族、閣下並びに諸君。只今森山少将の述べられましたる通り、過る二月の初め御同様に無上の哀しみを以て故中将と永訣を告げましてより、早既に百三十有余日を経過致したのでありますが、今日のこの寺院に於いて御遺族を始めとして斯く多数の親友諸君にお目にかかることと相成りますると、哀悼の念更に新たにして且つ切なるを覚ゆる次第であります。
 私は明治三十七八年戦役に於きまして、開戦当初より旅順陥落に至りまするまで、故人と共に東郷大将の幕僚として軍艦三笠に於いて参戦致したのでありますが、その約十一箇月即ち三百三十有余日と申します長き間には、故人と毎日々々三度々々の食卓を共に致しました許りではありませず、徹夜を論ぜず、あるいは事務室の内に於いて、あるいは艦橋の上に於いて、あるいは後甲板の上に於いて幾回となく顔を合わせて、あるいは公事を謀り、あるいは雑談を交えたと申す間柄でありますからして、今度この会の発起人の御一人よりの御請求辞し難く甚だ雑談の拙劣なるをも顧みず受けを致しまして、当時故人が如何に忠誠と熱心とを以てその職に尽瘁せるかの一班を皆さまに御吹聴致し、且つその戦役前後に於いて私が故人に就いて親しく知り得て居ます二三の点を?い摘んで御話申上げ、聊か諸君が故人の生前を偲ばるるの一助に供し、併せて只今申し述べましたる如く、故人と特別の関係ありし私自身故人を追悼するの赤誠を被瀝したいと考えます。
 故人と私とは、年齢が十も違って居りますから、兵学校の卒業も随って十年程度の遅速が御座いまして、この間故人に就いて何等聞知せるところも無かったのであります。然るに明治二十六年の春、私が常備艦隊参謀の職を承りまして、当時の司令長官伊東中将(故伊東元帥)の旗艦松島に乗艦して間もなきときでありましたが後甲板で彼と初めて顔を合わせまして一二分間言葉を交えたことがあります。私はその時既に大尉の古株。彼は少尉に成り立ての時分、何かの話はしましたけれども、名前も知らぬ位でありましたから、彼が去りし後付近に在りし人に彼は誰かと問いましたところ「秋山という本艦の航海士なり。兵学校在学中の成績常に抜群なりしのみならず乗艦以来実地勤務の状態も申分なく後来一と廉の人物となるべく大に有望なる青年将校なり」と申すが如き返答を得ました。そこで私も彼が当時少気鋭、炯眼隆鼻、見るからにいきいきとしたる面貌と想い合わせました如何にもその通りなるべしとの印象を得まして、今でも私はこの初見の時の彼が面影は目にちらつくような感が致すのであります。
 然るにその後十箇年程と申すものは、あるいは乗艦が違いましたり、あるいは海陸勤務が互いに掛け違いましたり致しまして、滅多に面会もいたしませず、偶々会いましても、海軍省の廊下とか何かの場合何れかの軍艦で邂逅し、久濶を述べる位に過ぎなかったのであります。けれどもこの間、故人が既に非凡の人物として認めらるるに至りたる話は、他より伝聞致した許りでありませず、彼が米国留学中米西戦争に当たり、米国の軍隊輸送船やサンチヤゴ港封鎖中の米艦に乗り組み、視察せる海陸戦闘状況の報告、並びにその翌年約六カ月米国大西洋艦隊に乗組み見学せる事項の報告、留学中の作業とでも申すべきか、海軍戦略戦術に関する論文、帰朝後に短時日間旅順大連の視察報告等を一覧致しましてその観察の鋭きこと、識見の高きこと、文章の簡潔巧妙なること等に驚歎敬服して居りました次第でありますが、この十年間の終り即ち明治三十六年の夏頃になりますと、日露の関係何となく緊張せる状況を呈し、私など地方の軍港にのみ居りましたものでも、人の話や、新聞の所報に依りまして、この模様にては結局戦争は免れぬこととなりはしないかとの感じが出て参りましたが、当時私は軍艦初瀬の艦長を奉職して居りました故にいざと申すことになりましたら、当時新式戦艦六隻の一たる該初瀬を指揮し、畢生の努力を以て御奉公致すべしと私かに腕を扼(やく)しつつ只管乗員の訓練に従事致して居ります中、その秋即ち十月の末に至り風雲益々急ならんとする際、料らずも誤って東郷大将(当時中将)の率いて居られたる艦隊の参謀長を拝命致したのであります。これは私に取り、甚だ柄にない重大な役目と考えまして大いに当惑致したのでありますが、それと殆ど同時に有馬中佐(今の中将)及び故人即ち秋山少佐(当時は少佐)この両人も矢張り東郷大将の幕僚となって、私の下に参謀の職を奉ずることに成れりということを聞きましたので、私は非常に喜びまして、この両人さえ来れば安心である、所謂百万の味方を得た様なものである、これならば安心して御奉公が出来ると考えたのであります。その中には愈々この両人も着任してその職務を執ることになりましたが、その節はまだ戦争が始まったと申すではなく − 勿論戦争を見越して段々予備艦が就役するとか、転職転乗のため士卒の往来が甚だ頻繁になるとか、風雲益々険しい情報が伝わりまするので人心は頗る緊張して居りましたが − 為す仕事は余り平時と変わらない。ただ緊張せる気を以て盛んに諸訓練を行うとか、臨戦の下準備を為すに止まりまして、これらの事は誰が参謀となって致しても当然出来る仕事で、当時の事に於きましては、故人についてこれと取止めてお話しすることはないのでありますが、その中、連合艦隊の組織を始めとして、凡ての戦争準備着々整頓しつつ、形勢険悪の間にその年も暮れ、翌年二月六日には愈々談判破裂、大令東郷大将に下ると申すことになりまして、それより愈々故人が驚くべき才能を発揮するという段取と相成ったので御座います。今日は海軍部外の御方が沢山お見えで御座いますから、ちょっとここでご参考のために申し添えて置きたいことは、軍の総司令官 − 即ち主将 − この主将が − 私は陸軍の方は知りませぬが、たぶん陸軍でもそうであろうと思います、また外国の事も知りませぬが、外国でも同様と思いますが − 凡そ軍の主将というものが、大軍を指揮して大戦を交えるのに、一々自ら具体的の計画を立てるというような事はないと考えます、況(いわん)や自ら筆を執って作戦の命令を書くという様なことはないのであります。主将はただ大局を達観して大作戦情断乎なる決心意図を示すのであります。その意図を達するために具体的の計画を立て、また計画を実行するために命令案を作るというのは主将の下にある参謀官の職務で御座います。尤も参謀官の職務と申しましても、ただ作戦の計画を立て、作戦の命令を書くということが唯一の職務ではありませぬ。或いは運輸通信、或いは情報蒐集、或いは炭水弾薬その他各種軍需品の配給等の如き、作戦と密接の関係ある種々の職務があるのでありますから、その三人とか四人とかの参謀に役割を定めるのであります。彼の戦争には有馬中佐、秋山少佐、その両人が作戦の計画をなし、その作戦の命令を作成するという役割を授けられたので、この両人が戦争の始めから談合して種々の計画を立てたのでありますが、その計画を立てたものを筆を執って文章に現しますことは、主として故人が担当して居りました。有馬中佐は当時破天荒の壮挙と見做されましたその旅順港閉塞の熱心なる主張者であって、且つ自ら是に当たらんことを東郷大将に請いましたので、遂に東郷大将もこれを是認されて、二回の閉塞を決行されたのでありますが、その時分に有馬中佐は非常に健康を害されて、このままではどうなるか分からないというところから、内地の大本営に代わることになりました。これは四月の下旬の頃のことであったように思います。その節、私は有馬中佐に向かって、「君が大本営に行くなら誰か後任を推薦せよ」とこう申しましたところが、その時有馬中佐は、秋山は少佐であるけれども、この外に誰も推薦するものはない、秋山以上適任者として中佐級に心当たりなし、秋山は官は低いがこれを私の後に昇せられることを切望するということでありました。私もそれに同意致しまして長官に申し上げましたところが、それが宜しかろうというので直ぐに故人が有馬中佐の後を継ぐことになりました。ここからは殆ど故人の一人舞台立つの姿となって、この作戦の計画を立て、作戦の命令を立案するというようなことになりました。勿論彼が下にも前にも申し述べましたる通り作戦計画及び命令起案とには密接の関係ある要務を分担せる極めて有為の参謀両三名ありしことを忘れてはなりませぬけれども−今一寸彼が斯くして書いた命令箇条だけを申しますると、第一に旅順口外の奇襲、それと同時に行いました仁川の海戦、或いは一回、二回、三回の旅順閉塞、或いは間接射撃、或いは第二軍の大輸送、それから続いて封鎖というような大なる作戦は申すまでもなく、故人の頭より出で、故人の筆に成らぬものはないと申しても宜しいのであります。而してその立案せるものは殆ど何時でも即座に東郷大将の御承認を得たので御座います。その他実際の行動に掛かりました時に、種々の状況が湧いてくる度毎に臨機応変の策を提出し、私の足らざることろを補ってくれましたことは枚挙することも記憶することも出来ないくらい屡々のことでありました。要するに当時の作戦の大小命令は殆ど故人の頭と手腕とに依らないものはないので御座います。その間故人が渾身の熱血を沸かし智謀を揮ってその職に従事しました有様というものは到底私の口から形容することの出来ない位で御座います。それで当時の彼が頭脳に関しては私はこういう想像を致した位で御座います。それは故人の頭は滾々(こんこん)として流れ尽きざる天才の泉というものを持って居る。その泉は天才に加うるに或いは目に見、或いは耳に聞き、或いは萬巻の書を読みて得たる知識の中に不要なものは洗い流し、必要なる部分のみ蓄えるという作用を有し、事有ればその中より自然と相当のものが流れ出て来るにあらずやと申す様なる想像で御座いました。なおまた故人が戦役を通じて種々錯雑せる状況を綜合統一して供するの才能に至っても実に驚くべきものがありました。今単にその一例として戦闘報告文を綴れることを申し述べますならば元来艦隊の長官なり、幕僚なりが旗艦に在って自ら目撃し得る事柄の範囲は多寡が知れたものでありまして、旗艦所在地以外の事は皆通信とか書面とか、或いは口頭とかにて報告を受けて、始めて分かるものでありますが、その中書面にて参ります諸報告なれば、これを綜合統一することは比較的容易なることもありますけれども、例せば開戦当初の旅順港外の奇襲−三隻及至四隻より成る駆逐隊三隊にて決行せるものの如き、旅順口閉塞決行第一回には五隻、第二回には四隻、第三回には十二三隻にて決行いたしましたが、これは各艦ある所まではその指揮官が引率して参りますけれども、いよいよ決行となれば、各艦独断専行、各その目的に進んで参りますのでありますから、状況が各艦違って居るのであります、−の如きなおその他種々の場合に於いて一部隊または数艦艇が特別行動を為しましたる時の如き、書面にて報告する前に、各司令官とか各艦長とか、数人が銘々各部隊または各艦船の執りたる行動や遭遇せる状況を口頭にて東郷長官に報告致しに参るのでありますが、私等はこれを聞きたるあとにては話が混雑して誰が何と言ったか直ちに忘れる位でありましたのに、故人は立ってこれを傍聴して居り、各自の報告が了りますと直ちにその要点を綜合して突差の間に立派なる一と纏めの報告文が出来たのであります。これら報告の幾何が世に発表されましたか、またその発表されたものは彼が起草せる報告文でありしか、またその文章も原文のままなりしか分かりませぬが、当時秘密を保つの必要上取捨省略せるもの多かりしと察します。兎に角彼が起草せる凡ての報告その物は何時も簡潔要を得てしかもその文章はその有名なる「舷々相摩す」と申すような筆法にて出来、これを読めばその時の有様が躍如として目に映ずるが如き心持を起さしむる計りで御座いました。要するに、当時故人が作戦の目的を達するがために昼夜を論ぜず、如何にその精力と智能とを発揮して職務に尽瘁せるか、その実際の状況は到底私の口では言い現わすことが出来ぬので御座います。
 今日の席に於いて私自身に関する事を申し述べますのは、甚だその所を得ざる様では御座りますけれども、これもまた畢竟故人の隠れたる功績を追想し、当時の偲ぶよすがとなすの趣意に外ならぬので御座りますからなお暫くご清聴を願います。
 私は前にも申しました通り、日露戦争には戦初より旅順陥落に至るまで連合艦隊参謀長を奉職して居りました。然るに当時軍人転職等の事は公報せられませんでしたから、日本海海戦なども矢張り私が参謀長を務めて居ましたかの如く、今でも往々誤解せらるることがありますが、実際私は旅順陥落後間もなく、他に転職を命ぜられたのでありますから、私と故人との関係を述べますことは主として開戦当時より旅順陥落に至る十一箇月間の事に属するものと御承知を願いまして、さて私はこの間、上には沈勇黙侵す可からざる威厳を有せられ一面には温情掬すべき美徳を蓄えられ、宏量大度、善く人を容れて疑わるることなく、しかも一旦大事を処せらるるに当たっては機を失せず勇断果決、これを遂行せざれば止まずと云うが如き極めて強き意思を有せられ、真に所謂将に将たるべき大性格を完備せられましたる理想的の首将というべき東郷大将を戴き、下にはただほんの概要に過ぎませぬけれども、ただ今申し述べましたる如き精力絶倫、神算鬼謀、真に稀世の軍略家たりし故人を軍師として控え、計画立案一に彼が明敏なる頭脳と手腕とに持ちまして、私はただその成案をそのままに長官に取次ぎ決裁を仰ぐことに致しましたる外、私自身としましては、何ら為す所なく真に所謂拱手して戦争最初一年間の御奉公をなし得ましたことは何たる幸せでありましたか、私は時々当時を回想しましては、感慨無量の中にも故人の面影彷彿として眼前に顕わるる如き心地がいたしまして、常に尽きせぬ感謝の意を表する次第であります。
 然るに当時これらの事実を知らざる世間の一部には、私が連合艦隊参謀長でありしと申す表面上の事実から推量して、私も何か大した働きでも為したかの如く誤解せられたと見え、新聞紙などにも評判せられまして汗顔に堪えませず、故人に対しては「君の御蔭で我輩も偉い人物に世間からしてしまわれたぞ」と申して共に大笑をなしたこともありますが、この虚名はなお幾分その情勢を存し居るものと見えまして、時々痛み入るお世辞などに預かり誠に慚愧の至りで御座います。孟子も声聞過情君子恥之と申して居りますが、評判が事実に過ぎても君子はこれを恥ずることでありますから、私の如き全くその実なくしてただ虚名を博するに至りましては君子たらずと雖も恥じざるを得ないのであります。けれども一面から考えますれば、これまた故人の御蔭を偲ぶよすがと心得て、厚顔にも一々打消しもせず甘受して居る次第で御座ります。もっとも本日御臨場の諸君は、海軍部内の方は勿論、部外の諸君に於かれましても、大概当時の事情はご承知のことと存じますけれども、今日この故人追悼の席に於いてこの事実を私の口より申述べ、如何に私が故人に負うことの大なりしかを御吹聴するの機会を得ましたことは、私の本懐これに過ぎざる次第で御座ります。
 なお戦役後にも故人について敬服いたせる事多々ありますけれども、一々申し上げましては余りに時間が長くなりますのみならず、この時分の事の多くは他に私より更に善くご承知して居らるる方々が御座りますから、後刻相開かれます談話会席上に於けるこれら諸君のお話に譲ることと致しまして、ここに終わりに臨み一言申し添えたき事が御座ります。それは何方も御承知のことでは御座りまするが、兎に角故人の頭脳の明晰なりしことは実に驚くべきことでありまして、しかもその明晰なる頭脳はいわゆる明鏡止水の如くに一と所にじっと静まり返って物の来るのを待ってこれを照らすと申すのではなく、活動も活動、あたかも扇風機の如く回転しながら活動を続け、常にこちらより仕掛けて行きて物を捜し、何でも当たるを幸いにこれを照らし、これを研究して良きものと見れば直ちにこれを実用に供せんとするという風でありました。この活動こそ近来彼が健康を害せる一大原因と思いましたから、昨年大病後面会致しました節にも「君は余りに過度に頭を使うから病気に罹る、ちっと暢気になる稽古をせよ」と忠告致した様な次第であります。天もし彼にせめて今十年の寿を仮しましたならば、更に我海軍に多大の貢献をなしたるべきは勿論、なおその晩年一二年間時勢が彼を閑散の位置に据えいるを許し、且つ彼に著述でも行って見ようとの気分が生ずると仮定しまして、彼自身が参戦中の大経験、前後三回海軍大学校戦術教官としての学生を指導せる資料、その他彼が読破消化せる内外古今万巻の兵書等の粋を綜合して全然彼自己のものとなし、なおそれまでには益々円熟すべき彼が頭脳と彼独特のきびきびせる文才とを以てこれに推敲を加えることと致しますれば、私は東西古今を通じて一二を争うべき兵書の一大著述が出来たであろうと考えます。私は一大著述と申しました − しかし斯く大と申す形容詞を付したのはその字数が多いとか、頁数が多いとか申すが如き外容の厖大なるを申すに非らずして、その内容の価値の大なるべきを意味するのであります。もっとも著述の如きは彼が国家に尽くせる他の功業に比すれば言うに足らざることでありましょうけれども、私はもしこの如き著述ありとせば、長く後進を誘掖して我が海軍を裨益すること実に計るべからざるものありしならんと存じまして、この一事にても益々故人の早世を悼惜せざるを得ないので御座います。言葉拙にて且つ足らず十分意を尽くすを得ませんけれども、これを以て私の追悼辞といたします。