閑日月の一年

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  大正五年の十月三十一日、将軍は長い欧米の旅から帰朝し、超えて十二月一日の定期異動で第二水雷戦隊司令官となった。
 翌大正六年七月、病気療養のため海上勤務より転じて海軍将官会議議員の閑地に就いた。将軍は青年時代、兵学校を出てから今日に至るまで公務の繁忙裏に一身を委ねて、ほとんど私生活というものがなく、家庭のことも忘却していた。結婚してから多くの子女を挙げているけれども、あるいは出征し、あるいは艦上生活を営み、東京にあっても軍務局長の如き激職にあり、また愛国の一念から自ら進んで種々の方面に関係を持ち、間口の広い生活を営んでいたので、家庭などを碌々(ろくろく)顧みる暇がなかった。
 それがこの時になって初めて閑日月を得る身になり、五十を過ぎたところで初めて将軍は私生活らしい私生活に触れ、家庭の一員として、改めて親しみを持つようになった。
 その時分将軍は渋谷に住んで居たが、長男の大君や三男の中君を連れてよく四谷見附の三河屋へ牛肉を食いに行った。しかし初めから三河屋へ飯を食べに行こうというのではなく、「ちょっと散歩して来よう」といって出ては、結局三河屋へ寄ったのであった。
 三河屋の帰りにはよく夜店をぶらついた。そして丸い蜜柑玉(今のドロップスのようなもの)を五銭ばかり買って子供に与え、また自分でもしゃぶりながら歩いたりした。その頃チョンマゲを結ってブッキリ飴(飴の中からおかめや天狗などが出て来るもの)を売っていたおやじがいて、それも買ったものだが、その飴屋の爺さんは今でも生きているはずだ。それから今の鹽町の所の角にあった本屋に立ち寄って本を漁って帰ることも屡々だった。
 将軍は着物の柄の見立てなどもうまかった。夫人に「どれだけの丈があったら宜しいのか」と聞いて自分で子供の着物を買って来ることもあった
 散歩の途次、呉服屋のショーウィンドの前に立って、よく陳列の呉服類を見ていた事があったが、そうした間に将軍はいつの間にか着物の柄の選択眼を養ったのだろう。つまり将軍は柄を見るのが好きだったし従って見立もうまくなったわけだろうが、大体図案的なものが好きでそうしたものを買っていた。楽焼などへ書いても図案風のものが多かった。焼き物や家具等も自分の好みのものを買ってきた。つまり将軍には将軍の好みがあり趣味があったわけである。
 書画を書くことが大好きであったし、よく書画の売立があると行って目録を持って帰ってそれを見て書いた。それがまたなかなか器用で華山なら華山、文晁なら文晁の特色を直ぐに呑込んでうまい画を描いた。
 晩年将軍が宗教に凝ったことは有名だし、これについて兎角の批評を下す者もあるが、凡そ宗教問題の如き内面的精神的なものを、うすっぺらな外観のみで批評するのは無理である。
 宗教の事に関しては別頁「人物編」で詳述するからここでは省くが、将軍があれ程宗教に熱したに対して、令兄の好古大将が全然無宗教家であったのは、兄弟だけに兎角対照される。
 好古将軍は日本のヒンデンブルグといわれ、あるいは辛夷の風格を有した典型的武将と言われた程で、全く武人的に完成された人だった。好古将軍は道徳以上に宗教性の必要を認めず、道徳の範囲で以て総てを解決し、その間何等疑義もなく些の動揺もなかった。
 これに反して真之将軍は道徳にも宗教的基礎がなければいけないというのであった。そして死の直前まで死そのものが宗教であるか何うかを突っ込んで研究しようとした。真之将軍は、宗教研究家であって、しかも宗教信仰家にはなり得なかったようである。そこに癒されない悩みがあり、その問題を解決し得ずして逝いたのである。つまり疑義の前に動揺しつつ、最も真剣にこれを究めんとして究むるに時日が足らず、中途にして逝いたのである。