島村速雄

坂の上の雲 > 登場人物 > 島村速雄【しまむらはやお】


島村速雄

出身地

土佐藩

生没年

1858年〜1923年

海軍兵学校

7期

海軍大学校

日清戦争時

連合艦隊参謀

日露戦争時

連合艦隊参謀長
第二戦隊司令官

最終階級

元帥海軍大将

伝記、資料

「元帥島村速雄伝 」(中川繁丑)

 土佐藩郷士の次男として生まれる。先祖は土佐の戦国大名 長宗我部家の家臣で、戸次川の戦いで戦死している。海軍兵学校を首席で卒業した後は海軍部内でも数少ない戦術家として知られ、単縦陣戦法を創案。日清戦争では常備艦隊参謀に抜擢され、司令長官の伊東祐亨を補佐した。また、明治33年の義和団の乱では大沽に派遣された艦隊の司令官として現地で指揮を執った。
 明治36年、対露戦に備えて連合艦隊が編成されると連合艦隊参謀長に就任。開戦後は秋山真之と共に黄海海戦までの作戦立案を行った。黄海海戦後の水雷艇司令更迭に伴い、自らも参謀長の職を加藤友三郎に譲り第二艦隊司令官に降格。しかし、日本海海戦で対馬航路説を推すなど、その発言力は大きかった。休戦議定書締結後には海軍休戦地域画定委員となり、真之と共にロシア委員との交渉に当たった。
 戦後は海軍兵学校校長、海大校長、軍令部長、軍事参議官などを歴任し、亡くなった日に元帥となった。


日露戦争中の逸話

参謀としての心がけ

 島村は新任の参謀が着任すると次のような訓示を与えていた。
「参謀の不注意のため、司令部と旗艦乗員との間に面白からぬことが事が起こることがある。それは参謀が長官の旨を受けて為すことでも、動もすると参謀自身の考えで旗艦の艦長、副長らの行為に口出ししているように見える事もあるからである。故に、信号の揚御など前もって命じられていることであっても、長官が艦橋に居るときは一々長官の指示を伺って為すべきである。参謀長以下の為すことは長官の命令を伝えることであるから、その心得を欠いて自分勝手に為す如く見られることなき様に慎まねばならぬ。まして自分の考えで、前艦橋で艦長や副長の為すことが長官の意図に沿わないと判断して勝手に干渉する如きは不可である」
 島村は参謀長として常にこの事を心がけ、司令長官である東郷平八郎の意思を尊重して、これに反する主張をすることはなかった。また、自分の作戦計画が却下されても嫌な顔をせず、採用されるように再考を重ねたという。


島村の返歌

 日本海海戦前夜、第2戦隊の旗艦磐手の川島令次郎艦長は、司令官である島村の部屋を訪ねたときに「あすを知らぬ 身をも忘れて 思ふかな 幾萬世の 国の御栄」という自作の和歌をテーブルの上に置き、その後、十数分ほど艦内を視察しに行った。川島が自分の部屋に戻ると、机上に島村からの返歌が置いてあった。「副直の 入り来るたびに 思ふかな 敵見ゆるとの 電持ち来しかと」。この数時間後、本当に副直が島村のところへ「敵艦見ゆ」という電報を持ってくることになる。


小さなことも気を配る

 日本海海戦での戦闘終結後、島村は川島艦長、竹内重利参謀とシャンペンで祝杯をあげることにした。しかし、コップがほとんど壊れていたので、シャンペン用、葡萄酒用、ゼリー用の3種類をなんとか揃えることができた。島村が川島にシャンペン用のコップを勧めると、「いえ、これは司令官がお持ちにならなければ・・・」と川島が遠慮した。すると「いや、僕は今日の戦は見物していただけだから、よく働いた艦長がこのコップを使えばいい」とさらに勧め、けっきょく川島がシャンペン用を持つことになった。この話は川島が「小さな話だが、島村司令官の性格がよく現れていると思う」と戦後の談話会で語った。


一位になっても謙虚

 戦後は自分の功績を誇るようなことをせず、すべて真之ら部下の手柄とした。雑誌『太陽』で行われた各界著名人の人気投票で島村が海軍の一位になった時も、「自分はその栄誉に値しない」と言ってこれを辞退し、記念品すら受け取らなかった。


部下の慰労会を開く

 日露戦争終結後の明治39年、島村は功二級金鵄勲章と年金千円を受け取った。その時、島村は飯田久恒、清河純一、松村菊雄の三人を日本倶楽部に招き、「自分は金鵄勲章を頂いた。諸君と喜びを分かち合うために晩餐会を饗したいと思い、お招きした次第である」と言って、参謀長時代の部下たちに御馳走した。

無益な殺生を好まなかった島村

敵兵の救助を進言

 黄海海戦(日清戦争)中、火災を起こした敵艦「超勇」の近くを通過した連合艦隊本隊は、止めを刺すべくさらに砲撃を始めた。この時、敵の乗員たちが海に飛び込み始めている様子を見た島村は「もう超勇を砲撃するのは止めた方が宜しいでしょう」と伊東に進言し、砲撃を止めさせた。


真之を叱る

 真之が旅順港閉塞戦でロシア軍に攻撃された駆逐艦「暁」の負傷者収容を途中でうち切って反撃しようとしたときに、「瀕死の負傷者をうち捨てるとは何事か」と叱りつけたという。


敵艦乗員の八割を救助

 日本海海戦で海防艦「ウシャーコフ」を追撃した際には、まずは降伏勧告を送り、相手がそれに応じないことを確認してから砲撃。敵艦沈没後は乗組員救出に当たり、422名の乗組員のうち339名を救助した。

第二回万国平和会議で

ハーグで好古と同宿

 明治四十年、島村は海軍委員としてオランダで開催された第二回万国平和会議に出席した。この時の陸軍委員は秋山好古であり、二人は同じホテルに泊まっていた。この時、好古は島村に教えてもらうまで自室に風呂がある事を知らなかったというエピソードが残っている。
(詳細は伝記「秋山好古」の「第二 平和会議」を参照)


平和会議で髭を伸ばす

 平和会議に出発する際、島村は副官に「会議で任務を尽くしてきたら、ヒゲを十分に伸ばして帰る」と伝えた。数ヶ月後、島村がヒゲを伸ばして帰ってきたので、副官は会議で満足できる成果が得られたことを知ったという。


ドイツ代表を論破する

 島村は平和会議ではあまり自説を述べなかったが、機雷使用に関する委員会でドイツ代表が「人道正義のためと言って国を犠牲にすることは出来ない。ドイツは機雷を設置する権利を保留する」と主張すると、「自我の主張に固執し、人道を顧みず、毫も互譲の念なくば、我々がこの会議で集まる必要はない。今まで長い期間をかけて進めてきた会議も水泡に帰するだろう」と論破し、各委員の賛同を得た。

その他の逸話

縛られても泣かない

 幼い頃、父親の言うことを聞かなかった罰として柱に縛り付けられたことがあった。しかし島村は3時間ほど経っても泣きもせず、詫びも言わず、ただ黙って静かにしているばかりなので、却って親の方が困惑し、遂に母親が縄を解きに行ったという。


島村と真之の趣味

 島村は芝居、義太夫が好きであり、海大校長時代は同じ趣味を持つ真之と一緒に見に行くこともあった。将棋やビリヤードも好きであったが、どちらも下手でなかなか上達しなかった。


健康には無頓着

 自分の体には無頓着で、健康診断などは「自分で何も具合が悪いとは思わないのだから、医者に診てもらう必要はない」と言って嫌っていた。それでも病気になると何事も医者の言う通りに従っていた。「豚のようになり、何の心配もせずに医師に任せておくと、病気は一番早く治る」と常々語っていた。


老人の植木を全て買い取る

 ある日、島村の母と妻は買い物から帰宅する途中に植木を積んだ荷車が横町に入るのを見かけた。二人がどこに行くのだろうと思って見ていると、その荷車は島村家の前で止まり、すぐ後に帰ってきた島村の指示で狭い庭に次々と植木が植えられていった。母が「なぜこういうものを買ったのですか」と訪ねると島村は「この寒い日に、植木を売ろうとして路傍にいた老人を気の毒に思っい、すべて買ってやれば早く家に帰れるだろうし、その家族も喜ぶだろうと思って買った」と答えた。島村自身は植木には興味がなく、老人のために買っただけであったので、それらの植木は転居の際に庭にそのまま残していった。


小言を言わない

 艦長時代、島村は従僕を叱ることがなかった。寝室の就寝準備ができていなかったことが二回ほどあったが、その時も小言を言うことなく、自分で用意をして就寝したという。


留守宅見舞(島村家)

 一昨三十五年の八月、令息初太郎君出生されて後、前期の如く昨年七月二十五日一度帰郷し、同月三十一日帰艦せられたから、、令息の方では、殆ど見覚えなく、また平生大佐が不在だから、毫も大佐の事を口にすることもなかったが、始終写真を座敷に飾ってあるから、つい、覚えて、近頃から片言交じりに「阿父(おとっ)さんは、阿父さんは、・・・」など言はるるなど、夫人に承ったから、自分は「坊ちゃん阿父さんは何うなすって?」と聞けば、「阿父さんはお艦(ふね)」と言って罪なく笑われた。で、自分は、折から持参していた戦争実記に掲載してある、大佐の写真を見せると、「オヤ阿父さんが、坊の阿父さんが・・・」と夫人の顔を打戌目(うちまも)って、小さき指で大佐の顔のあたりを撫でて居られた。

『日露戦争実記』第十五編 「留守宅見舞 島村海軍大佐」より


島村と真之

真之との出会い

 島村は真之との出会いについて、真之追悼会で次のように語っている。
「故人と私とは、年齢が十も違って居りますから、兵学校の卒業も随って十年程度の遅速が御座いまして、この間故人に就いて何等聞知せるところも無かったのであります。然るに明治二十六年の春、私が常備艦隊参謀の職を承りまして、当時の司令長官伊東中将(故伊東元帥)の旗艦松島に乗艦して間もなきときでありましたが後甲板で彼と初めて顔を合わせまして一二分間言葉を交えたことがあります。私はその時既に大尉の古株。彼は少尉に成り立ての時分、何かの話はしましたけれども、名前も知らぬ位でありましたから、彼が去りし後付近に在りし人に彼は誰かと問いましたところ「秋山という本艦の航海士なり。兵学校在学中の成績常に抜群なりしのみならず乗艦以来実地勤務の状態も申分なく後来一と廉の人物となるべく大に有望なる青年将校なり」と申すが如き返答を得ました。そこで私も彼が当時少気鋭、炯眼隆鼻、見るからにいきいきとしたる面貌と想い合わせました如何にもその通りなるべしとの印象を得まして、今でも私はこの初見の時の彼が面影は目にちらつくような感が致すのであります。」


真之の計画を修正

 日露戦争中は作戦のほとんどを秋山真之に任せていたが、真之の計画は理論的であっても実行には危険が伴うものも多かった。そのため島村は損害が大きくならないように留意し、計画書は一々念を押して詮議し、腑に落ちないことがあれば同意しなかった。日露戦争に従軍した艦長の一人は、真之の作戦が島村の修正なしにそのまま実行されていたら損害は更に増えていたかもしれないと後に語ったという


真之に匹敵する文才

 連合艦隊が大本営との交渉する際の電文は、全て真之が起稿し島村が添削していた。島村は文中に圭角があって当たりの良くない個所があると、原文の意味を少しも変えることなく、円滑になるように改作した。他人の文章の添削は、その人の文才が原案者よりも優れていなければ難しいものだが、島村が添削した文章は「秋山文学」の名文たるを失わず、誰が見ても気持ち良く受け入れられる文章であった。さらに、交渉を円滑にして事務を進捗させる効果もあった。


真之の追悼公演

 大正七年、真之の追悼会を計画していた森山慶三郎は島村に追悼の辞を依頼した。島村はしばらく考えたが、「自分には出来ない。自分がそれをやることで、ことによると東郷元帥の偉勲に曇りをかけることがあってはならなぬと思うから、なかなか難しい」と断った。森山はやむを得ず他の人にやってもらうように話を進め始めたが、追悼会前日になって急に島村に呼び出された。「この程度の内容でよければやる」、そう言って島村は2日間軍令部長室に籠って書き上げた草稿の要領を森山に話した。そして森山から「それで結構ですから、ぜひお願いします」と言われ、島村の追悼講演が決まった(島村の追悼文は伝記「秋山真之」の「稀世の名参謀」に全文掲載)。